映画『ジョーカー』
好きか嫌いかでいうと、大好きです。大好物です。
ただ、観終わったあと、いい気持ちになる映画かというとそうではない映画。
以下、ネタバレ。
主人公が暗闇に堕ちていく。
ささやかな光さえも彼から遠ざかっていく。
暗い暗い闇の底。
そこに突如差し込んできた、強い光。
スポットライト。
他の映画だったら「その光は彼にとっての大きな希望となり、困難を乗り越えた末に、幸せになりました。めでたし」で終わるかもしれない。
だけど『ジョーカー』では、その強い光が希望にはならなかった。
自分の居る場所の暗さを、認識させるだけの存在にすぎなかったのだ。
『ジョーカー』に出てくるピエロたちは、赤や緑、青で彩られ、とてもカラフル。
楽しげな音楽やダンスも出てくる。
テレビからは、笑い声の絶えないコメディショー。
だけど、それらも、彼の暗闇を暗闇たらしめる光でしかなかった。
上から差す希望の光なんて都合のいいものは、この世の中にほんとは無いのだ。
スポットライトを突然浴びたら、眩しすぎて何も見えなくなる。
暗闇の底に居て、何も見えないのと、同じ。
医療にしろ、政治にしろ、なにかを解決する仕事で、ひとりひとりの物語をまるごと受け止めるのは難しい。
ただ、「お前にはコレが必要なんだろ?」くらいの雑な気持ちで、暗闇の底に向けられた光には意味がない。
暗闇にいる人を照らす光には、足元から包み込むような、やわらかさ、やさしさが必要なんだろう。
彼は暗闇のなかで苦しむ人々にとって、足元から照らす光に、自分自身がなっていく。
それはとても凶暴で、やわらかさや、やさしさはない。
だけど、ただ、足元から光を照らしたということだけで受け入れられていく。
人々は歓喜し、この世の希望を、彼に見た。
それで「めでたし」になればいいんだけど。
彼も、人々も、街も、ちっとも希望は感じられない。
さらには観客だって、なんにも救われなかった。
ピエロは泣いたような顔をして笑う、虚構の存在。
『ジョーカー』は、ストーリー自体も虚構と現実の境界線が曖昧となり、観客を闇の底へいざなう。
あー。
いまの日本。
現実が、どんどんと真っ暗な虚構に飲み込まれているように感じる。
このまま放っておいて辿り着くのは、ジョーカーが希望の光になる社会じゃなかろーか。
ほかになんか希望とかある?
ないわー。
自己責任の成れの果て。
映画『ジョーカー』は、真っ暗な社会にむかって引き金を、すでに引いている。
かもしれない。