あの味を、この手に
煮込みうどんが好きだ。
実家では、土日の昼ごはんによく出てくるメニューの一つだった。
アルミ製の広口の鍋に、冷凍うどんと斜めに切った長ネギと刻んだ油揚げを入れて煮込み、最後に溶き卵で綴じる。味付けは、作っているところを見る限り、ほんだしと醤油だけの、シンプルなものだ。
熱を出して学校を休んだ日には、母が「何食べたい?」と聞いてくれる。私は大抵、煮込みうどんをリクエストした。
体調不良の時にうどんを食べる、というのは、消化にも良いし、いかにも定番な感じがするけれど、私は決して「うどんくらいしか食べられないから」というわけではなかった。その証拠に、幼少期を振り返ると、40度の高熱を出して自力でトイレすら行けないくらいフラフラの時でも、家族と一緒にハンバーグを食べていた記憶がある。単に「好物を使ってもらえる」チャンスだと思って、母に「煮込みうどんがいい」と伝えていたのだ。
この煮込みうどん、具材も味付けも大変シンプルなので、長じてから何度も自分で使ってみたことがあるのだけれど、どうにも母の味が再現できない。薄くなり過ぎたり、醤油の味が強過ぎたりして、良い塩梅にならないのだ。あんなに何度も、作っている姿を横で見てきたのに。
結婚してから、夫がうどんを作ってくれたことが何度もあるが、夫の場合は大体決まってヒガシマルのうどんスープを使う。初めこそ、「そんなものを使わなくてもほんだしと醤油で美味しいのに」と用意してもらっておきながら失礼なことを考えたものだが、これはこれで美味いと思うようになった。自分で作る時もヒガシマルにお世話になることが増えたが、おかげで、母の作る煮込みうどんの味はどんどん私から遠ざかっていった。子どもにとってのうどんは、きっとヒガシマルでインプットされていることだろう。
数ヶ月前、夫の転勤で住み慣れた地元を離れ、両親とも気軽に会える距離ではなくなった。
引越しからひと月ほど経った頃だろうか、急に口の中が「母の作る煮込みうどんの味」でいっぱいになった。食べてもいないのに舌の記憶が鮮明に蘇る、アレである。
ちょうど体調を崩している時で、それはほとんどホームシックに近いものだったのかもしれない。
大した手間ではないけれど、元気を振り絞って自分で作ったところで、「ちょっと違うなあ」とがっかりすることは目に見えていた。かといって、夫や、近くに住む義母に「うどんが食べたい」とリクエストしても、出てくるものはまるで違うものだろう。
近くにいたからとて、いい年をして「体調が悪いからうどん作りに来て」なんて言えるわけもないのだけれど、その時唐突に、「ああ、私は地元を離れてしまったんだなあ」ということを強烈に感じた。
結局その日は、自作のうどんでも夫のうどんでもなく、義実家の料理をご馳走になった。
母の作る煮込みうどんの味を、この手に再現できる日が来たら。
私は故郷を、もっと近く感じられるのかもしれない。