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おじいちゃんと戦争
祖父は勇ましい人だった。
もっとはっきり言うと、短気で喧嘩っ早い側面があった。
営んでいた小さなお店の片隅にはいつも竹刀がぶら下がっていて、「強盗が来たらおじいちゃんがこいつで追い払ってやる!」と息巻いていたので、家族はいつも肝を冷やしていたものだ。
祖父は大正9年生まれで、若い頃から健康そのものであったので、太平洋戦争の時分には他の多くの若者と同じように徴兵された。
当時のことを話す時、祖父はいつも「おじいちゃんが兵隊さんだった時はな」と言う枕詞をつけて話す。
そういう時の祖父はどこか自慢げで誇らしげですらあり、「戦争」というものがわからない幼い私の中で、それは祖父の武勇伝の一つだった。
セレベス島にいたときはこうだった、樺太にいた時はああだった、と何かの拍子に思い出しては繰り返し語ったので、家族は耳にタコができるほど、祖父の武勇伝を聞かされた。
フィリピンではヤシの実がゴロゴロ転がっていて、時には上から落下するヤシの実にぶつかって、打ちどころ悪く亡くなる人がいた、とか。
戦争から帰ってきた時、戦死したものと思っていた田舎の母が幽霊を見たように驚いたのだ、とか。
中でも祖父が自慢げに語ったのは、海を漂流したエピソードだった。
当時、前線への補給部隊として海上を移動していた祖父は、メナド沖で船に攻撃を受け、乗っていた船が転覆してしまった。
「わしは板切れに捕まって、そのまま海でどんぶらこ、どんぶらこ、と漂っとった」
「助けが来るまで3日かかった」
「腰にたまたま鰹節がぶら下がっとって、そいつを食べてな」
3日間の漂流を鰹節で乗り切ったというこの話は、祖父の中で鉄板中の鉄板。私自身は他所で話した覚えもなかったが、何故か近所の幼馴染も知っていた。「おじいちゃんほんと強いよね。鰹節で生き延びたんだもんね」と言ってくれたが、一体どこで話すとそんなに拡散されるのか不思議なものだ。
祖父が語る戦争は、カラッとした語り口のおかげで、物々しい雰囲気を纏わなかった。普段と同じ、よく通る大きな声で快活に話す。だから私は、「兵隊さん」だったことは勇ましい祖父にとっては自慢の過去で、戦争について語ることになんの抵抗も持っていないのだと、思っていた。
小学生のある夏、自由研究で「戦争」をテーマにしてしみようと思った。当時、家にあった「21世紀こども百科」の興味のあるページをノートに書き写すことが私の中での密かなブームだったので(なんとなく、【勉強してる感】があるからだろう)、「戦争」のページは読んだが、その数ページでは概要しかわからない。ならば、祖父母の実体験を聞いてみたら、いい自由研究になるのではないか。それに、いつもは「また始まった」とばかりに聞き流してしまうけれど、私が興味を持って話を聞きに来たら、話したがりの祖父は喜ぶのではないかと思った。
「自由研究、戦争について調べたいんだけど」
商売をしていた祖父母の休みは日曜日の1日だけ。
2人が休みの日曜日に、実家に隣接する祖父母の家に行ってそう伝えた。しかし祖父は間髪入れずに、
「そんなもん、面白半分に調べるもんじゃない!!」
と私を叱り飛ばした。
いつも、「おじいちゃんが兵隊さんだった時はな」と明るく話していた時の笑顔はなく、厳しい顔で怒鳴ったきり、私とは、目も合わせなかった。
やりとりを見ていた祖母は、「戦争なんて難しいことじゃなくて、もっと違うテーマにしたら」と執りなすように言った。想像とは全く違うリアクションに、みるみると気持ちが萎んでいったのを覚えている。自室に帰って拗ねて泣いたような気もする。
私は決して面白半分に言ったつもりはなかったけれど、あの当時の自分に、「『戦争』なんてちゃんとしたテーマのことを調べたら、大人が感心するだろう」という打算がなかったといえば、多分嘘になる。そういう自分の浅はかさを見透かされたような気がしたから、私はそれ以上、祖父に食い下がることはできなかった。
それから10年あまりののち、祖父は、「きっと100歳を超えても元気だろう」という周りの予想を裏切り、92歳でこの世を去った。
亡くなるまで、祖父は変わらずに「おじいちゃんが兵隊さんだった頃はな」と折に触れて語っていたけれど、祖父が自ら語る以外の話を、私から尋ねることは二度となかった。そのことを、少し後悔している。
祖父は片耳が悪く、話しかけるといつも「おじいちゃんはこっちの耳が聞こえん」と言って逆の耳を差し出していた。それはどこか戦地にいる時に、近くで爆撃を受け、鼓膜が破れたからなのだ、と、それも再三話を聞いた。
祖父が戦争で奪われたものは、きっと片耳の聴力だけではなかった。海を漂流し、覚書によれば「82kgの体重が38kgに」なるまで衰弱しながらどうにか生き延びた祖父が、どれだけの仲間をその時喪ったのか、私は聞いた覚えがないのだ。
祖父の普段の語り口は、「兵隊さん」であったことを誇らしく思っているように感じたけれど、本当の本心は、もっと複雑だったのだろうと思う。
私にそれを慮る想像力があれば、祖父はもっと違う言葉で、「戦争」を教えてくれただろうか。
今から7年ほど前、祖母と古いアルバムをめくりながら、戦時中の話を聞いたことがある。祖父の話はマニラだとかニューギニアだとか、南方の島の印象が強かったが、写真にはあたたかな毛皮の帽子や耳当てをしている姿が多く写っていた。てっきり話題に出てくる樺太の様子かと思ったら、中国だと言う。知らないことだらけだった。
祖母は祖父から伝え聞いた話をポツポツ教えてくれて、自身の戦時中についても淡々と話した。
その日の帰り際、祖母はポツリと、「情けない時代だったよ」と溢れるようにつぶやいた。
「誰が、あんな情けない時代にしたのか……」
小さくなる語尾に、私は返す言葉を見つけられなかった。
私は、戦争を知らない。少なくとも身近な人を戦地に送り出す体験も、爆撃で友人を亡くしたこともない。
けれど、世界のあちこちでは今も、紛争やテロが起こっていて、たくさんの人が理不尽に命を奪われている。
他国の出来事であっても胸が苦しくなるけれど、同じようなことがこの日本で起こらない保証などどこにもない。現にその時は遠くないのだと示唆する声も多く、背中を見えない何かに撫でられているような不安感がずっとある。
もしかしたら、と思う度、「情けない時代だったよ」と呟いた祖母の声が、何度も自分の耳の奥で蘇る。
祖父や祖母が見た景色を、忘れないでいること。
誰かが生きられなかった今日を生きて、誰かが喪った親と話し、誰かが抱きしめられなかった我が子を抱いているのだということを、できるだけ忘れないでいること。
恐ろしいことを、「見えないふり」で誤魔化さないこと。
平和への道筋を、考え続けること。
子どもたちが生きていくこれからの未来を、「情けない時代」になんか、したくない。
きっと、させない。
そのために、目を開き、耳をすませて、今を生きる。
過ちを、繰り返さないために。