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「いじられキャラは愛されている」その愛は、届いていないかもしれない。


突然だが、あなたは「いじられキャラ」という立場になったことがあるだろうか。それともいじる側の人間だろうか。

私は、昔からいじられてきた生粋の「いじられキャラ」である。何故かわからないが、気づいたらそうなっていることがほとんどだった。学校のクラスでもサークルでもアルバイトでも研修でも。逆にいじられていないと私の取り扱いわかってなくて気を遣われているかもしれない。そう感じていることもあった。

今後の自分の振る舞いについて考えたく、自分がいじられキャラになりがちな要因を幾つか挙げてみた。

【いじられキャラになる人の特徴を考えてみた】

私がいじられキャラになっていた要因はおそらく以下3点だろう。

①人と話すのが下手だった

昔から集団で会話して場の流れを乱すことが怖かった。その場で面白い発言をすることはできない人間だった。あまり考えずに発言することが怖いという思いもあった。この発言から私が「ネガティブ」で「インキャ」寄りであることは明白だろう。割と旅行とか飲み会でも「楽しかった〜」と心から100%思えた記憶がない。うまく話せなかったな、とかあの時の発言微妙だったなと後から頭の中でぐるぐる巡ってしまう。


②イジられると自然と顔が笑っていた

よく言われる「いや、やめてっていうけど顔笑ってんじゃん」。本当に私は笑っているのか?本気でやめてほしいイジリの時でもブレーキがかからない原因は絶対にここにあると思う。私は笑っているつもりはない。確かに私がそれを楽しいと思えば問題ないのだが。

私が唯一やめてくれという嫌いなイジられ方がある。恋愛関係である。「〇〇君いいじゃん〜」って何?選ぶ方にも選ばれる方にも権利はある。どんな反応をしたら正解か未だにわからない。事実これでくっつけられそうになった人のことを嫌いになってしまって避けるようになったエピソードが数個存在する。「〇〇君のこと好きじゃなかったんだね」とか言われたこともあった。確かに私がその人のことを好きだと言っていたらまだよかったかもしれないが、好きなんて一言も言った記憶がない。正直このイジリに関しては相手にも失礼極まりないからやめてほしい。冗談じゃん、って言葉は私には通じない。


③親しみやすさを出そうとした自分なりの振る舞い

「誰とでも仲良くしたい」ポリシーを持つ私は、できるだけ明るく元気に過ごしているし人と話すこともそれなりに楽しいと感じている。後輩とかにもできるだけ気を遣われないように振る舞っていると思う。

しかし、これが返って裏目に出ていたことも多かったのかもしれない。後輩からは舐められていたことも多かった。でも人が離れていってほしくないから怒らないし起こり方も知らないのだ。
この「舐められたくない」気持ちが先行してたまに真面目で厳しい発言や態度をすることが多くなった。どんなに言ってもどうせ怖いと思われないだろう、と考えたからだ。


【いじられキャラであることのメリット・デメリット】

続いて、この立ち位置で得したこと・損したことについて振り返ってみた。

メリット:「その場の中心になることができる」

そう、私は決して今まで築き上げた自分の立ち位置についてそんなに不快には思っていない。むしろ「イジってくれた」方が仲良くなっている気がすることもある。イジられると自然にその場の主役になる瞬間がある。自分に関心を持ってもらえる。だから、この文章も別に「イジらないでください」という目的で書いていないのだ。別にイジられて楽しかったこともあるしそれで距離が近づいている気がするから問題ないのだ。

デメリット:「なんとなく劣等感を感じることが多い」

なんとなく、いじられていることが多いからか「自分はカーストが低い」という潜在意識を植え付けられているように感じてしまう。だって笑い者にはなっているのだから。それに加えて、「自分のことを大切にできなくなる」。普通に接してくれる人にまでもっと雑にしていいよ、とかそんな風に思ってしまう。大切にされていないことをベースとして生きてきてしまったから。こういう生き方しか私は知らないのだ。


【あとがき:「愛されている」なら全て許されるのか】

社会人になってからか、いじられることは極端に少なくなった。それを少し寂しさを感じている自分もいる。このnoteは「イジるのやめてください」ということではなく、「イジる際にいって良いことと悪いことがあることは弁えてくださいね」ということである。イジられているその人は、もしかしたらその場を悪くしないために笑って過ごしているだけかもしれない。なんでも言っていいと思わないでほしい。

私には「いじめ」と「イジリ」の境界線がよくわからない。物を捨てたり影口を言っていなかったらいいのだろうか。無視していなければ問題にはならないのだろうか。「いじめじゃない」と言ってくるが、「された方がいじめだと思ったらいじめ」なら、この理論は通らない。イジられた私の被害妄想かもしれない。私は、「その人を本心では大切にしているかしていないか」と一応結論づけている。

よく「いじられキャラって愛されている証拠だよ」と言われているが、それを免罪符にしていないか?そうやって言っておけば何を言っても許されると勘違いしていないだろうか。「そうか私は愛されているのかじゃあいいや」とはならない捨ておけない発言もある。もちろん一つ一つは覚えていないが、それが降り積もって今こういうモヤモヤを抱えて生きているのだ。絶対に私だけじゃないと思う。

「愛されている」という愛は、私にそこまで届いてはいない。「愛されているんだよ」と言っているあなたたちは、その愛を別の形でしっかりと届けてくれているだろうか。


こんなふうに書いている私も、多分知らないうちにどこかで誰かを不用意に傷つけているかもしれない。いや、きっと傷つけてしまっているだろう。問題は、それに後からでも気づいて反省するかしないかだと思う。

「あの時の言葉、大丈夫だったかな」今はそれだけでいい。それを思うか思わないかだけで、かなり思いやりへの考え方が変わってくるだろう。

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