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【音食同源】  第23回:チャーハンと忌野清志郎「まぼろし」

チャーハンと忌野清志郎。

そんなテーマで書いてみようと思ってみたものの、中華料理とロック、ごはんと音楽、果ては炭水化物と人類と、どんなに考えても2つのビッグ・ネームは交わりようがありません。

一方は「飯を炒める」と書き、一方は自分自身を炒めている、いや痛めているかのように己のことを「忌まわしい者」だと名乗る。いくら考えてもチャーハンと忌野清志郎についての接点が見当たらない。こんなときは文明の利器、インターネットの力を借りようじゃありませんか。

「チャーハン 忌野清志郎」……あった。見つかりました、あっさりと。福生にある「福実ラーメン」。そういえば昔、TVブロスにそんなことが書いてあったような気がする。普通に清志郎さんが通っていたというだけなのですが、そこはさすが有名人。所謂「聖地巡礼」ということで多くのファンが訪れているようです。聖地巡礼かあ。そういうのあんまり好きじゃないんだよな~と思いつつも、「チャーハンと忌野清志郎」をテーマにする以上、実際に食べに行ってみるしかありません。

福実ラーメンは、青梅線牛浜駅を降りて徒歩10分ほどの場所にある、看板こそちょっと風変わりなものの店内はごくごく庶民的なラーメン屋さんです。しかし、店頭には「忌野清志郎」と、あの独特のリズムを持った字体のサインが飾られ、たしかにこの店に清志郎が訪れていたことがわかります。

どうして忌野清志郎はこの店のチャーハンを愛していたのでしょうか? 考えるまでもなく「美味いから」。そりゃそうです。どうして忌野清志郎の音楽を今も聴き続けているのか?言うまでもなく、良いから。そう、とても良い音楽だからです。

人は、お腹が空いたときに夢中でご飯を食べているときほど幸せな瞬間はありません。忌野清志郎の音楽は、心にぽっかり穴が空いたとき、心が満たされないとき、まるで空腹を満たすように、メロディで、言葉で、心の隙間を埋めてくれました。それはとても幸せなことで、その音楽を聴いている瞬間だけは、自分がどんなにみじめなときも、どん底にいるときも、 自分が何者かもわからなくなったときも、死にたい気分のときも、必ず心を満たしてくれました。もちろん、今でもそうです。それは、福実ラーメンのチャーハンのように、いつもそこにある、ごくごく普通の存在だったのです。

「ぼくの理解者は行ってしまった もうずいぶんまえの忘れそうなことさ」(RCサクセション「まぼろし」)

忌野清志郎がこの世からいなくなって来年2019年で早10年が経ちます。大好きな人がいなくなる。こんなにさみしいことはありません。考えてもみてください。お気に入りのラーメン屋さんでいつも食べていたチャーハンがある日忽然と姿を消し、まったく食べることができなくなってしまうことを。フライパンから皿に移り湯気を立てて目の前に出てくる大好物のチャーハンが永遠に食べられなくなってしまうことを。福実ラーメンのカウンターでチャーハンを夢中で食べているそこの若者よ、そんなことを考えたことはないだろう?な?そんなときが来たら、きっと君も愕然とするに違いない。呑気にごはんつぶをほっぺに3粒もつけている場合ではないのだよ。忌野清志郎がこの世にいない、ということはそういうことなんですよ。え、違いますか?いや僕は同じだと思いますよ。自分を満たしてくれるものがなくなってしまう喪失感という意味に於いては。

清志郎が「まぼろし」を書いた当時の「理解者」とは誰を指しているのかはわかりません。しかし、この曲を聴かされる側にとっての「ぼくの理解者」は、間違いなくこの曲を歌う忌野清志郎自身でした。自分にとってたった1人の理解者、たった1つの心の拠り所。その音楽に対して、ただただ純粋にそう思えることこそが、忌野清志郎の音楽が持つ最大の魅力であり、彼が不世出の、唯一無二のアーティストたる所以ではないでしょうか。この世を去ってから約10年が経つ今、なおさらそう思えるのです。

ということで、自分にとっての理解者をより理解するために、福実ラーメンのチャーハンを食べてみました。おおっ!想像以上にめちゃくちゃ美味しいじゃないか!その味は、優しくて、あったかくて、でもパラパラっと軽やかで、でも芯があって。まるであなたの歌のようでしたよ、清志郎さん。

            忌野清志郎(Ⓒ阿部高之)

              ごちそうさまでした。

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