根津神社考3(日本武尊といるさ山)
根津神社の由来を探る連載第3回。
前稿までで、江戸時代の地誌によって、根津神社が現在の位置に遷宮した経緯を見てきた。
が、ホームページの由緒にある「日本武尊」や「1900年余り」といった記述は見つからない。
今回から紹介するのは「武州豊島郡駒込村古来伝聞記」という文献。
ここには、「御府内備考続編」以上に詳細な由来が記されている。
ただ、この文献、以下のような点があり、内容の取扱いにはちょっと気を付けたい。
(web上では)原典が見つからない。
駒込村の色々なことが書かれてそうなタイトルだが、根津神社の説明以外で引用されることがなく、おそらく根津神社だけの伝聞記。
おそらく、としたのは、国会図書館でもgoogle検索でも原典を見つけることができなかったため(根津神社や都立公文書館にあると紹介する文献もある)。
仕方がないので、本稿は、全文を掲載している(と思われる)「東京市史稿 市街篇第十八」から紹介する。いつか現物を見たい。
いつ誰が作ったものかわからない。
「御府内備考続編」において「駒込片町名主八左衛門所蔵の-といふものに…」としながら、ごく一部にだけ言及があり、文政期(1830年前後)には既に存在していたものと考えられるが、最後に「捜索」と割書されている。趣旨不明。(あったけど失くなっちゃったから探しているということ?)
本郷区史では、駒込の項にて「文政中幕府の地誌編輯に際して発見せられたる駒込の旧記」と紹介しているが、何を根拠にそう記したのかは不明。
内容がちょっと「うさんくさい」
「続編」に比べて日付や人名などが異常に詳しい。が、他の文献と齟齬や矛盾があることも多い。伝説じみた内容も多く含む。寺社の由緒なんてそんなものかもしれないけれど。
前置きが長くなったが、かなり長いので、何回かに分けて紹介していきたい。
(大意)
今の駒込は、かつては「いるさ山」という林で、その林の中で今の根津権現のあるところを「いるさの森」と呼んだ。
昔、日本武尊が、この山に馬を集めて木々に繋いだのを見て、「駒こみたり」と言ったので、いるさ山は「駒込林」「駒込村」になった。
また、その森にサギが群がっているを見て「はしひめ」を想う和歌を詠んだ。
ついに「日本武尊」である
駒込まで来ているわけだから、いわゆる「東征」のときのことであろう。
(史実とするかはともかく)時期としては父親の景行天皇の時代だから、機械的に当てはめると確かに1900年くらい前。
ホームページ等の由緒の根拠はきっとこれであろう。
「いるさ山」に馬がたくさん→「駒こみたり」→「駒込!」
日本武尊が、馬がいっぱい集まったのを見て「こまこみたり(馬むっちゃ いるなあ)」とつぶやいた。これが転じて「こまごめ」になったという。
駒込の地誌でこの話に言及する例はあるが、出元はこの「伝聞記」と思われる。「いるさ山」の語源は不明。平安以降、歌枕として「入佐山」という言葉があるらしいが、あんまり関係なさそう。
ちなみに御府内備考続編の根津権現の巻に収録されているのは、この部分だけである。この後、根津権現のことがたくさん書いてあるのに。
謎の思い人「はしひめ」と謎の歌
誰なのか。
日本武尊には、仲哀天皇の母「両道入姫(ふたじいりひめ)」や「弟橘媛(おとたちばなひめ)」など複数の后がいるが、こんな人名は寡聞にして知らない。
その後の和歌も知らない。万葉仮名もなんか変である。「鉾刄止草」とかいて「むさしの」と読む例も知らない(2個所の「示(に)」は「尓(爾)」か)
意味は誰も訳してくれないから分からないが、「(私の気持ちは)独りでは寝たくないと争っている、いるさの森のサギたちのようだ(≒はしひめに会えず寂しいよ)」的なことだろうか。
そして根津神社の話に続く。
(大意)
そのいるさの森にある根津大権現の御神体は素戔嗚尊。
本地は十一面観世音菩薩。
いつできたかは分からないが、素戔嗚尊が「根の国」より皇室の繁栄と国民の平和を守ろうとこの世に現れたので「根の神様」という趣旨で「根津権現」と崇めていると伝わる。
いるさ山もこの神社の宮林だったから「素戔嗚山(いるさやま)」と書くようになったと伝えられている。
ご神体はスサノオ
御神体が素戔嗚尊なのは、御府内備考続編でも現在でも同じである。
スサノオは「根の国」の王となってからこの世に現れたので、そこから「根の権現」→「根つ権現」になったという。なるほど。
「素戔嗚山」と書いて「いるさやま」
「いるさ山」を「素戔嗚山(スサノオの山)」と書くようになったというけれど、こう表記している例は他に見当たらない。
あれ?日本武尊はどこ行った。
急に根津権現の話に移ったせいで、なんだか雰囲気が出ているけれど、よく読むと、その神社を日本武尊が創ったとは全然言ってない。
が、日本武尊の出番はこれにて終了。ええ…。
長くなってきたので、今回はここまで。
先述したとおり、御府内備考続編にもわずかに言及があるため、幕府の編纂者もこの文献の内容は知っていたはずである。が、本文からは捨象されているので、さすがに日本武尊のくだりは幕府の地誌としては採用できなかったのだろう。
「伝聞記」、まだ序の口である。少しずつ紹介していきたい。
次は時代は流れて「太田道灌」の登場である。
こぼれ話。
実は、「日本武尊が創建した」とする話は、御府内備考続編に一箇所言及がある。
伝聞記と同様の駒込の由来の後に、確かに日本武尊が帰陣に際して「宮造り」したとある。ただ、最後に「以上江戸図説」と割書して別の書からの引用である旨を添えている。孫引きなのである。
web上でようやくみつけた武江図説(江戸図説の別称。筑波大学所蔵)見ると、確かにそう書いてある。安永2年(1773年)大橋方長の作とのこと。
しかし、原典の「武江神寺録」がweb上では見つからないのである。
他の文献でも引用されているし、国会図書館に所蔵はされているようなので、いつの日か確認することとしたい。
ちなみに「江戸(武江)図説」も、続編に引用されている以外にも色々書いてありそう(「ねづ」の語源など)なのだが、いかんせんくずし字が読めないので、こちらもいつか紹介することとしたい。