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根津神社考7(藤堂氏とか神楽の起源とか)

 さて、根津神社の由来を探す旅、第7回。
 あと2回で「武州豊島郡駒込村古来伝聞記」の残りを紹介する。
 今回は、これまでのようなストーリー性があまりなく、ばらばらと。
 ちょっと長めだが、引用部分多めなのでご勘弁。


①藤堂氏が氏子になる話
(※白蛇伝説(前々回)と厨子新調の話(前回)の間に記載)

 又曰、伊賀伊勢乃大守藤堂和泉守高久殿、一とせ九死一生乃病悩にて異癘以乃外にて、諸々の名医その術を失ひしに依て、清英法印へ御祈祷の験を御頼ありける間、清英一つ乃意願発し異癘本復し給ハゝ、則高久殿氏子になし、大般若経六百巻おさめ奉るべし、此願望成就すべくんば、神霊をあらハし給へと丹心に祈りければ、はたして神霊を拝し、高久殿御病気たちまちに平復す。是によつて根津へ祈願のおもむきを述たれば、高久殿仰せには奉納乃義はいふに及ばず、氏子乃事我壹人に限るべあらず、江戸屋敷并に在国乃家臣残らす氏子たるべしと御約束ありて、一チ々々御願満給ふと也。

武州豊島郡駒込村古来伝聞記
東京市史稿 市街篇第十八より)

(大意)
 また別の話。伊賀の藩主、藤堂和泉守高久が重い病気にかかり、どんな名医でも治らないといって、清英法印に祈祷をお願いしてきた。
 清英は、祈祷で病気が治ったら氏子となり、大般若経600巻を納めなさい、願いが叶ったら神霊を崇めなさいと伝え、一生懸命祈ったところ、高久の病気はたちまちに治った。
 高久は、自分ひとりではなく、江戸屋敷や在国の家臣も残らず氏子になると約束して、晴れて願いがかなったという。


藤堂高久
 藤堂高久(1638~1703年)は、藤堂高虎の孫(高虎→高次→高久)。
 高久の弟の藤堂高堅は、宝永3年の根津権現の造営時に普請手伝を命じられ、敷地の造成に携わっている。
(参考)藤堂高堅が敷地造成を頑張った件(東京市史稿 市街篇第十五)

 今も根津神社境内に残る宝永7年の銅灯籠(重要文化財)には、藤堂高敏(高久・高堅の甥で、高堅の養子)の名前がある。
 8代将軍の世になり、根津権現祭礼への幕臣の関与をやめることにした際、藤堂氏だけは引き続き祀ることを認められており、氏子だったことは確かのようだ。

有德院殿御實紀
四月朔日(享保二年) けふ令せられしは、根津權現の祭禮、今までは官にて沙汰せられしが、此後は別當祠人等土人にはかり私にとり行ふべしとなり。先例には榊原式部大輔政邦・立花飛驒守鑑任・松平長門守利興・石川宗十郞總慶、おなじ祭祀のとき、神馬乘馬長柄の鑓を出す事を令せられしが、今より後停廢すべし、藤堂和泉守高敏は、氏神と崇敬するうへは、この限りにあらずとなり。

東京市史稿 市街篇第十八 

②根津所替のときに御神体や本地仏の厨子を新調した話前稿参照


③明暦年中に神楽湯花を始める話前回冒頭のみ触れた神楽の起源)

 明暦年中御やしろ御遷座ありし年、六右衛門行安清英法印へ申すやう、御神いさめ乃ためには、神楽を奏し湯花を献し然るべからん、今よりのちの御神㕝は、所の者どもより御神楽御湯花を献し奉るべしとて、則行安禪門神田明神の社家乃内月岡五左衛門に対面して、神楽湯立の事をたのミしに、太夫と申巫一人ならびに社人五人を連来、我身ともには七人にて、根津の舞殿におゐて十二座のかぐらを奏し、御湯立を献したてまつる。是より每年春ことにおこたる事なく、清英より四代目乃御別當昌宥雄の御代寳永三戌の二月まで相つとめしが、御造営に就き内所にて致しかたしと御別當のたまふ故やミぬ。御庭まつりとて、氏子を催ふし、御神㕝つとめたる事も、右御湯立乃はじめ、毎年駒込片町乃ものどものみつとめたりしが、寶永三戌年御宮御造営ありし明る亥の九月二十一日、駒込片町の外の氏子もまつりを出したり。是より以後隔年にする也。

武州豊島郡駒込村古来伝聞記
東京市史稿 市街篇第十八より)

(大意)
 明暦年中(1655~1658年)に社が遷座した年、六右衛門は清英に、神様のために神楽・湯花を献じるべきだと相談し、これからの神事は地元の住民によって献じたいと言って、神田明神の社家、月岡五左衛門に会って頼んだところ、太夫という巫女1人と、社人(神職)5人を連れて来て、我が身(月岡?六右衛門?)とあわせて7人で、根津の舞殿で12座の神楽を奏で、湯立を行った。
 これ以降、毎年春に怠ることなく、清英から4代目(ママ。3代目の誤り)別当宥雄の代、宝永3年2月まで行ったが、(新しい根津権現が)造営されたため、内緒でやるのは難しいと宥雄が言うので中止された。
 氏子を集めて神事を行う「お庭まつり」も、毎年駒込片町の住民だけでやってきたが、根津神社造営の翌年(宝永4年)の9月21日、駒込片町以外の氏子もまつりを出した。これ以降、隔年とした。

根津神社境内の神楽殿(Wikipedia commons)

神楽湯花と氏子のまつり
 上は現在の根津神社境内の神楽殿。ここで今でも行われている神楽の起源にまつわるエピソード。昌泉院清英法印と相談し、江戸の鎮守、神田明神に教えを請うて始めたことが記されている。
 根津神社の例大祭は、今でも変わらず9月21日(隔年ではなく毎年)。神楽もまたその際に奉納されており、「三座の舞」や「神楽面」は文京区の指定文化財である。

駒込住民による神楽の終焉
 少し補足をする。宝永3年(1706年)は、徳川綱吉の命令で今の根津神社の位置に新造し、遷宮する年(第1回参照)。この頃の別当は、清英から数えて3代目の宥雄だが、宝永3年の遷宮にあたり、歳が若いという理由で別の寺(以前紹介した瑞泉院真光寺)に飛ばされてしまい、代わりの別当として上野寛永寺の子院(常照院)から僧侶實興がやってきて昌泉院の住職となる。
 駒込住民としては、急にやってきた知らない坊さんではなく、今までお世話になってきた宥雄に「これからも神楽をやりたい」と相談したのであろう。しかし、根津権現が新しくなり、もはや駒込だけの神社ではなくなってしまったので「内緒でやるわけにはいかないよ」と断られてしぶしぶやめたという話。
 地元の「お庭まつり」も、地元駒込以外の町も含め、それどころか、後には将軍家の「天下祭」として行われることになる。自分たちが始めて40年続いてきた地元のお祭りが、将軍家の、江戸全体のお祭りになってしまう住民の戸惑いが伝わってくる、ものすごくリアリティのある話だと思うのだが、いかがだろうか。
 これで冒頭が「明暦」でさえなければなあ…。
(記載の位置からみても「寛文」の誤りだとほぼ確信している。)


④元禄16年に徳川綱豊が御宮を造営して遷座した話

 元禄十六年末に甲府様に従り御宮造営あり。同く九月五日に御遷座有しなり。これは御歳四十二乃御厄除御祈祷乃御為なりと風聞ありし也。

武州豊島郡駒込村古来伝聞記
東京市史稿 市街篇第十八より)

(大意)
 元禄16年(1703年)(末)に、甲府様(徳川綱豊。後の家宣)よってお宮の造営があり、同年9月5日に遷宮した。これについては綱豊の42歳の厄払いの祈祷のためではないかと噂されていた。


 むむむ。わずか2文だが、情報量が多い。年末に造営して、同年9月に遷宮するのは無理なので、おそらく「末」が余計なのであろう。

元禄16年の造営と遷宮
 ねづのごんげんを産土神とする徳川綱豊第2回参照)。
 元禄16年(1703年)のねずのごんげんは、寛文3年(1664年)に太田備中守敷地から、団子坂を渡った北側に「所替」した、小さい社のはずである。
 土地が変わったという記載はないので、おそらく敷地の中で社を建て替えたということだろう。あれから40年経っているので、建て替え時ではある。

 ただ、この年は、綱豊が5代将軍綱吉の養嗣子となる前年である。
 綱吉に後継者がなかったことは既に述べたが、後継者としては、綱吉の甥の綱豊の他に、娘婿の徳川綱教(紀州徳川家。吉宗の兄)もまた有力視されていた。この社の造営は、もしかして自分が後継者になるよう祈願したとか、あるいは実は養子になることが内定していて、その御礼だったとか、ちょっと色眼鏡で見たくなるタイミングの出来事である。

 そして、地元住民には「綱豊の厄払いではないかと噂された」というのである。綱豊は1662年(寛文2年)生まれだから、1703年(元禄16年)は確かに厄年。
 幕府の後継者争いのことなどまったく知らずに訝しがっていたのか、それとも庶民の間でも話題になっていて「将軍になるための厄払い」と噂していたのか、どっちなのだろう。


⑤元禄16年9月に宥雄の師匠皎月院の住居を作る話

 同く九月中別當宥雄仰せらるるは、今度御供所建申すにつき、少く台所のやうなる事をも付申たきよし御ねがひありしにつき、名主八左衛門・年寄六右衛門・次郎左衛門・三右衛門・利兵衛・勘兵衛申あハせ御手伝いたし、是を造る。則宥雄の御師匠皎月院こ乃ところに住居給ふ。

武州豊島郡駒込村古来伝聞記
東京市史稿 市街篇第十八より)

(大意)
 同じく元禄16年(1703年)9月、別当の宥雄から、今度、御供所(供え物を置くところ)を建てるにあたり、小さい台所のようなものもつけたいとお願いがあったので、名主八左衛門・年寄六右衛門・次郎左衛門・三右(左?)衛門・利兵衛・勘兵衛で申し合わせて、これを作ったところ、宥雄の師匠、皎月院がここに住むことになった。


 皎月院が誰なのか不詳。次の記述で村人の施主加入に関わっており、ねずごんげんの運営に一定の関与をした僧のようだ。他には特に述べるところなし


⑥元禄16年9月に御神体や本地仏の逗子や宮殿を新調する話

 同年九月根津御社御神體素盞尊乃御厨子白木乃御宮殿、
 右高サ一尺、前幅六寸、奧行四寸、但し正面ニ鏡あり。此うしろへ三寸ほどのきはふ作り、てふつがひハさうかな物金めつきなり。ゑび錠。
 根津御本地十一面観音の御厨子後光臺座。
 山王御本地薬師如来の御厨子後光臺座。
 八幡御本地阿弥陀如来の御厨子後光臺座。
 右御厨子、各来迎柱組物ぬきを入レ、ほりも乃金箔さいしき、上中下八さうかなもの打、ゑび錠ともに。
 右乃通り修補し奉り、則御厨子戸びらの裏に、
 武州江府豊島郡駒込惣鎮守  根津大権現御神體
                山下八左衛門
                青木六右衛門 印
                野口次郞左衛門
             施主 岡田三左衛門
                奧田利兵衛
                岡田(ママ)権兵衛
 元禄十六年辛未歲九月昌泉院宥雄代
 前之再興者寛文三癸卯清英代
 右御厨子ノ筆者武州ノ二字ハ青木六右衛門書之。二三年以来手震ヒ候ニ付、残る文字ハ岡田三左衛門書之。
 三社御本地佛之御厨子扉裏書付同前各記之。
 右岡本権兵衛儀、此ノ度何角働キ致シ、其上金一両出シ、皎月院ヲ以テ施主入リノ願ヒ有之ニ付、右ノ通リ加入ス。

武州豊島郡駒込村古来伝聞記
東京市史稿 市街篇第十八より)

(大意)
 元禄16年末(1703年)9月、御神体素戔嗚尊の厨子、白木の宮殿、高さ1尺、幅6寸、奥行き4寸、正面に鏡、背面に3寸ほどのきはふ(木破風?)作り。蝶番は金属で金メッキ。海老錠。
 根津御本地十一面観音の御厨子後光臺座。
 山王御本地薬師如来の御厨子後光臺座。
 八幡御本地阿弥陀如来の御厨子後光臺座。
 各来迎柱(らいごうばしら)は組物抜きに入れ(?)、彫刻、金箔、彩色、上中下八相金物うち、海老錠ともに。(詳細不明)
 右のとおり補修して、厨子の扉の裏に、次のように記した。
『武州江府豊島郡駒込惣鎮守  根津大権現御神體
                山下八左衛門
                青木六右衛門 印
                野口次郞左衛門
             施主 岡田三左衛門
                奧田利兵衛
                岡田(岡本)権兵衛
 元禄十六年辛未歲九月昌泉院宥雄代
 前之再興者寛文三癸卯清英代』
 筆者について「武州」の2文字は青木六右衛門が書いたが、ここ2、3年手が震えているので、残る文字は岡田三左衛門が書いた。
 ほかの三つの御本地佛の厨子の扉の裏にも同じように記した。
 右のうち「岡本権兵衛」は、このたび色々手伝い、その上金1両も寄付したので、皎月院より施主入りの願いがあったので加入したものである。


厨子、白木の宮殿
 元禄16年9月に御神体の「厨子、白木の宮殿」を補修したという。ここでいう「宮殿」は建築物ではなく、御神体を入れる厨子のこと。④の造営・遷宮と同時期なので、この際に厨子の補修が行われたものと考えられる
 厨子の細かい意匠は、一生懸命訳してみたが専門用語が多すぎて自信がない。おかしなところはご指摘いただきたく。

厨子の扉の裏の文字
 最後に年月がしっかり書かれている。
 寛文3年再興の記載も古い厨子の扉の文字を見て書き写したのであろう。
 ちなみに元禄16年は「辛未」ではなく「癸未」である。御愛嬌。

震えた手でがんばる六右衛門
 扉の裏の書き付けを、青木六右衛門は、ここ2、3年手が震えているので、最初の「武州」の2文字だけ書いたのだという。
 名主でもない六右衛門に、頭の2文字だけでも書かせてあげて、敢えてこのことを記録に書き残しているあたりに、住民の六右衛門への深い敬意がうかがい知れるではないか。
 白蛇を見る以前から祭祀を欠かさず、昌泉院を別当に招聘し、現代にまで続く神楽を始め、怠ることなく続けてきた古老・青木六右衛門
 あれから40年あまり。名主のように襲名の可能性はあるのだが、長生きしていたと信じたい逸話である。
(文政神社書上で「六左衛門」って書き間違えた奴、反省しろ。)


⑦宝永3年の造営・遷宮がなされる話

 …まで行きたかったが、今回はここまで。テキストばかりで申し訳ない。
 ばらばらの内容なのでどうまとめようかと思っていたが、思いの外、筆が乗ったなあ。

 さて、宝永3年の造営・遷宮の記録が「伝聞記」のラストである。
 次回これを紹介して、最後に「伝聞記」について所感を述べたい。


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