
根津神社考4(太田道灌の再興)
根津神社の由来を探る連載第4回。
引き続き、奇書「武州豊島郡駒込村古来伝聞記」を読み進める。
前回は、今をさかのぼること1900年あまり、日本武尊が「駒込みたり」と言った林の中に根津権現ができたんだ、というところまで紹介したので、今回はその続き。
時は流れ、15世紀。
江戸にこの人ありの太田道灌持資(資長)(1432~1486)の登場である。
昔太田道灌入道持資といふ人、此林に入て、船板乃ために楠乃大木を尋ね得給ひて、杣人を入て伐せ給ふに、怪我あやまちし、氣を失ふもの多かりけれとも、何乃こゝろもなく大勢の人夫を懸て、終日伐せられけるに、其夜のうちに木の切口もとの如くに愈合て、あとは小疵も見へさりけり。道灌是を見給ひ、不思議におぼし召、神木たるべきむねを察し給ひ、林の中を尋ねらるゝに、荒たる社あり。まひ殿(舞殿)と見へしは、土民乃馬繫場となり、馬糞山乃如く積もり、道灌是ぞと奥にいたり、社壇の前に蹲踞再拝し給ひ、神慮をなだめ奉られ、御宮造営し給ふべき御祈願ありて、か乃神木を乞うけ給ひ、しかうして後にくだん乃楠を伐られけるに、何の障りもなく伐おゝせ、船を作らせ給ふとなり。其楠乃切口差渡し二間に余りけると申つたふ。
太田持資入道道灌このとき右の祈願感就して、御宮造営し給ふなり。今千駄木といふところもこの林のうちにて、御薪山に成りしよりの名也と云へり。
(東京市史稿 市街篇第十八より)
(大意)
昔、太田道灌が、この林(いるさの林)で船板にするためのクスの大木を見つけ、これを切らせたところ、木こりたちが怪我をしたり、気を失ったりする。大勢連れてきて、一日中切らせても、その夜のうちに治り、小さな傷も見えなくなってしまう。
不思議に思った道灌が、神木なのではないかと林の中を探してみると、荒れた社があった。舞殿のようだったが、地元住民の馬を繋ぐ場所になっていて馬糞が山積みになっていた。
道灌は「これだ!」と奥に入って社壇の前に跪いて手を合わせ、お宮を造営しますから、と神様をなだめて祈願をした。すると、何の問題もなくクスの木を切ることができ、船を造らせることができた。木の切り口は2間(約3.6m)以上あったという。
道灌は、この祈願を踏まえてお宮を造営した。千駄木もこの林の内で、お薪山になったのでこの名前になった。

太田道灌、船板のためにクスを切る。
素戔嗚山(いるすやま)で見つけた大きなクスがどうしても伐れないので不思議に思った道灌が、付近で見つけた古祠に手を合わせたら見事に伐れたので、御礼に再興したという話。
あまり聞いたことのないエピソードである。船に乗るイメージもない。
ともあれ、これが「太田道潅入道持資の再興とも云ふ(神社書上)」、「太田道灌の再興有之候共云(御府内備考続編)」の原典であろう。
神社側も幕府に「とも言う」と報告し、幕府の編纂者もそのまま掲載しているあたり、正直あんまり信じてない感じが伝わってくる。
切り株とかが残っていれば、いい観光地にもなっただろうに。
さて、さらに時は流れて190年後…。
此造営乃後百九拾余歳を経て、萬治の頃、根津の社地御手洗ともに、太田備中守道顕入道殿御下屋鋪乃内に入、其代地三崎といふ所へ行道の坂の下口左りの方野道の右角へ出し、此ところへ御宮を移し奉る。このところそののち又本郷麟祥院隠居所に成りし故、則その鄰へ代地出て、御遷宮ありし也。しかるに其頃備中守殿御やしきへ社地を入、御手洗を泉水に用ひ、御やしき(ろ?)の跡へ遊山所を建給ひしに、不思議やたちまち火燃出て焼失ひたり。そのうへ道顕殿ふしぎ乃霊夢の告有しかば、驚きおそれて、か乃宮地の跡へ元のごとく根津のやしろを建給ふ。その社今に絶ずあり。其霊夢の様は、子孫までたゝるへしとの御事也と、申つたへしなり。
(東京市史稿 市街篇第十八より)
(大意)
この(太田道灌の)造営後、190年あまりを経て、万治の頃、根津の社地や御手洗(手水)は、太田備中守道顕の下屋敷に入ったので、代わりに「三崎といふ所へ行道の坂の下口左りの方野道の右角」に御宮を移した。また、その後、本郷麟祥院隠居所になったのでその隣に遷宮した。
その頃、太田備中守下屋敷で、手水の水を泉にして社の跡地に遊山所を立てたところ、たちまち火事になり、焼失した。資宗に霊夢のお告げがあり、驚き恐れて、社の跡地に元のように根津の社を建てた。その社は今も絶えずある。霊夢は、子孫まで祟るべしと言ったと伝わっている。
190年余りを経て
「万治の頃」は1658~1661年だから、そこから「190年あまり」前は1470年前後。太田道灌は永享4年(1432年)生まれ、江戸城を築いたのが長禄元年(1457年)というので、まあ、妥当なところではある。
もっとも道灌のクスノキイベントがいつのことかよく分からないので、別に「およそ200年を経て…」でも良かったような気はしないではない。
太田備中守の下屋敷
その万治年間に、根津の社地や御手洗(手水)が「太田備中守道顕入道殿御下屋鋪」の中に入ったという。
道顕は、徳川家光の側近の一人太田資宗(1600~1680年)の法名。太田道灌の6代孫(道灌→資康→資高→康資→重正→資宗)とされており、元和元年(1615年)に摂津守、寛永12年(1635年)に備中守に叙任されている。
その太田備中守資宗の「下屋敷に根津権現の社地が入った」ので「三崎といふ所へ行道の坂の下口左りの方野道の右角」に御宮を移したという。
どの辺りだか、当時の地図を見てみよう。

国際日本文化研究センター所蔵
この地図は元禄6年の「江戸図正方鑑」。根津権現遷宮の少し前の地図なので、今の根津神社のあたりはまだ「甲府中納言様御下ヤシキ」で、北の方に「子ズノコンケン(ねずのごんげん)」の文字が見える(青い丸)。
さて、その中間に、逆さまに「太田ツノ守(摂津守)」とある。これは太田資宗の後を嗣いだ太田摂津守資次の下屋敷。すぐ上に「センタンキ(千駄木)」とあり、この林を含めたこの区画一帯(赤枠で囲ったあたり)が、伝聞記にいう「太田備中守道顕入道殿御下屋鋪」である。
三崎といふ所へ行道の坂の下口左りの方野道の右角
「太田ツノ守」の敷地の北側を東西に通る道が「団子坂」であり、東に坂を下った先に、右から読んで「サンサキ」とある。
「三崎」は「みさき」ではなく「さんさき」と読む(現在でもそうなので地元の人なら常識だ)。
そのサンサキというところに行く道(団子坂)の下を見て「左の方の野道」の「右角」に社を移したと。
なるほど、この地図は、すでに「御宮を移した」後のようだ。
この地図より以前、「ねづのごんげん」は、団子坂をはさんで南、太田ツノ守(摂津守)の敷地内のどこかにあったということである。
本郷麟祥院隠居所になったので更にその隣に移した
麟祥院は、春日局ゆかりの神社。本郷と湯島の間にある。
この移転については判然としないが、上の元禄6年(1693年)の地図と、第1回で示した宝永2年(1705年)の地図を比べてみると、上の地図では「子ズノコンケン」は南側の団子坂に接しているが、宝永2年の地図では、少し北側に寄り(あるいは狭められ)団子坂との間に茂みのようなものがあるのが分かる。

実は、宝永より前の地図での「ねづのごんげん」は基本的に団子坂に接しており、逆に、宝永以降の地図では、道との間に少し隙間がある。後の地図ではこの隙間あたりを「麟祥院領」としているものが見受けられる。
(例:駒込より千駄木根津谷中迄絵図(安永・天明年間(1772~89)台東区立図書館所蔵)
おそらく、最初は文字通り「野道の右角」にあったものが、道路に面した土地を「麟祥院隠居所」とするために奥(隣)に移されたのではないか。
もしかすると「伝聞記」の執筆時点(宝永以降)には既に「隣」に移っていて、これでは「右角」にはならないため、説明を付しただけなのかもしれない。
いずれにしてもこの頃の「ねずのごんげん」が、他の用途があれば容易に何度も移動させられるような小さな社であったことが伺い知れる。たぶん、最初は道ばたの祠みたいな感じだったのだろう。
社をどかして遊山所つくったら焼けた
その太田備中守資宗、敷地の外に「ねづのごんげん」を追い出した跡地に「遊山所」を造った。下屋敷(別荘)なので、庭や茶室を整えたということだろう。というより、お宮を外に移したのはそのためなのではないか。
しかし、驚くことに、たちまち火事になって焼けてしまい、おまけに「不思議の霊夢のお告げ」があったという。ゆっくりしていってね。
驚き恐れた資宗は、社の跡地に元のように根津の社を建て、その社は今も絶えずあるという。ここでいう「今」がいつか分からないが、ねづのごんげんの「社」が一時的に2つあった可能性があり、興味深い。
さて、今回はここまで。
「伝聞記」はまだまだ続く。
次回は、村人たちの再興記である。ニョロ。
こぼれ話。
実は、この太田備中守の屋敷跡、その一部が「文京区立千駄木ふれあいの杜(通称:屋敷森)」として今でも一部残されている。
文京区が、太田家の末裔の方から「できる限り樹林を後生まで残す自然を残すこと」を条件として寄付されたという。約束どおり、都心とは思えないような自然が残っている。公園というよりもはや杜である。いや、だからそう言ってる。
「子孫まで祟るべし」と言われたくらいだから、ここに社が残っていたりしたら面白いのだが、web上の他の方のレビューを拝見する限り、そうしたものはなさそうだ。

筆者も行ってみたのだが…おそらくただの灯籠のように見えるがどうだろうか。
この下屋敷を描いた絵巻物「太田備牧駒籠別荘八景十境詩画巻(寛文元年(1661))」が、文京区立のふるさと資料館に残されているそうだ。
まだ拝見していないのだが、寛文は万治の次だから、「伝聞記」に従えば、まさに遊山所が燃える前後の絵巻物で「社」が書かれているかもしれない。
いつかまた、掘り下げたいテーマではある。