根津神社考5(駒込の村人と白蛇伝説)
根津神社の由来を探る連載第5回。
「武州豊島郡駒込村古来伝聞記」の記述に沿って、日本武尊、太田道灌ときて、万治年間(1658~1661年)に太田備中守の敷地から、その外に移転したところまで紹介した。
雑木林だったこの地にひっそりとたたずんでいた「ねずのごんげん」を鎮守として祀っていたのは、駒込村の村人たち。今回は、彼らの話である。
小さな祠を鎮守とあがめ、定期的に供え物をし、お祭りを欠かすことのなかった彼らのある日の出来事が、日付入りで詳細に語られている。
(大意)
その所替のときまで、社に別当(管理する寺・僧侶)もなく、駒込を開拓した百姓、古老・青木六右衛門が、毎年2月に赤飯を備えたりして祀っていた。
「所替のあるべき年」の5月5日、青木六右衛門が、岡田五郎兵衛、野口次郎左衛門、山下八左衛門を連れて節句のお参りをしたところ、皆なんだかものすごく寒気がしたので、社壇をみると、白い小蛇がお宮の雁木(石段)でとぐろを巻いてちろちろ舌を出していた。
これを見て恐ろしくなった4人は、その帰り道すがら、今見たのは「神霊」だから、我々のような身分の低い者が扱っては、どんなお咎めがあるかわからない、と口外しないよう固く申し合わせた。
右の所替のとき/御宮所替あるべき年の5月5日
急に具体的な日付が出てきてちょっと戸惑うが、前稿で紹介した太田備中守敷地の内から団子坂の北側に「所替」されたときのことを指していると思われる。
白い小蛇
今日でも縁起の良い動物とされている白蛇。村の鎮守の社に突然現れた白蛇は「神霊」と畏れられ、村人たちは軽々に口にしないよう申し合わせる。
青木六右衛門、岡田五郎兵衛、野口次郎左衛門、山下八左衛門
駒込村の仲間たち。古老・六右衛門は開拓した村人の一人というから、偉い立場の人だったのだろう。
この人たちに見覚えがある方は記憶力がよろしい。
第1回で紹介した「御府内備考続編」の冒頭に同様の記載がある。
微妙に名前が違う…。今回の主役、青木六右衛門は、他の資料では六「左」衛門とされていることが多い。くずし字で「左」「右」は似ているから仕方ないけれども。
なお、山下八左衛門(山本は誤り)の名は、各種の資料で駒込片町の名主として明治近くまで出てくる。おそらく襲名されていたのであろう。
さて、それからどうした。
(大意)
六右衛門は、別当も置かずに自分たちのような身分の低い者が祀っていたので神霊が現れたのだろうと考えた。そこで、良いお坊さんに別当を頼もうと考え、5月15日、本郷4丁目の薬師昌泉院が適当であろうと、六右衛門が頼みに行ったところ、5月21日に社に来てくれることになった。
六右衛門たちは19日から21日までみんなで冷水を浴びて身を清めておこう(垢離精進)と申し合わせた。
21日、昌泉院の清英(しょうえい)法印が来られたので、お迎えし、皆で神霊を拝んでいたことを伝えたところ、清英は大いに感心して、神前を色々と見て回り、祭壇を設け、供え物をしてお経を唱え、別当になってくれた。
以上が、寛文の頃(1661~1673年)、根津神社の縁起を編纂した時に、六右衛門と清英に尋ねて、聞き伝えた内容である。
村の鎮守の社で神霊の白蛇を目撃し、しかるべき管理者なくては祟られると考えた六右衛門らは、昌泉院の僧清英法印に頼み込み、丁重にお迎えをして、別当の承諾を取り付けた。
昌泉院清英法印が根津権現の別当となった旨は、幕府編纂の「続編」にも記載されており、今回紹介した節は、そのときのエピソードということだろう。
本郷の薬師昌泉院
昌泉院は、この頃「昌泉院真光寺」といって現在の本郷三丁目の駅の近辺にあり、本尊よりも、薬師堂の方が「本郷薬師」と呼ばれて有名であった。当時の地図にもしっかり書かれている。(右中央辺りに「シンカウジ」「薬師」の文字が見える。)
昌泉院は、宝永3年(1706年)の綱吉の命による遷宮時に神宮寺として根津権現境内の中に移り、昌泉院真光寺は「瑞泉院真光寺」と院号を変えてその地にとどまったが、東京大空襲で全焼した。寺院は現在は世田谷区に移転したが、本郷にある「薬師」は今でも本郷で地元の人々に愛されている。
「右ハ…」
ここまでの話は、寛文年中に根津神社の縁起をまとめたときに六右衛門と清英が語った話だという。
だが、せっかく話を締めたのに、まだ話は続く。
(大意)
清英法印が、別当になるから神霊を拝ませたまえ、と一生懸命祈ったところ、白い小蛇が現れて宮の柱にからまっていたので、霊験あらたかなこと疑いない、みんなの願いを叶えてくれ、ああ尊い尊い、と、感動して目を閉じていたら、その間に何処かへ消えてしまった。
これといって特筆する点もないが、なんだか取ってつけたようなエピローグである。
ともあれ、以上が「ねづのごんげん」にまつわる神霊「白蛇伝説」の顛末である。
いかにも伝説じみた話でありつつも、日付や人名が入っていて妙に話が具体的であったりする、興味深い物語ではないだろうか。
ということで今回はここまで。
2025年は「巳年」。新年のこのタイミングで公開したかった!
さて、「伝聞記」はまだ続く。しばらくばらばらしたエピソードが羅列された後、徳川綱豊が綱吉の養子となって西の丸に入り、宝永3年に現在の位置に遷宮する話へとつながっていく。
次回は、そのばらばらしたエピソードの一つ、ご神体や本地仏の厨子を新調する話を取り上げて、太田備中守敷地から「ねづのごんげん」に移る「所替」の時期に追ってみたい。
こぼれ話。
現在の千駄木には、今回紹介した白蛇伝説の舞台、太田備中守の屋敷のあったあたりから不忍通りに向かって下る、こんな坂があるのである。
この坂の名は。
そのまんまである。
色々調べてみても、この坂名の由来については「不明」とされており、今回紹介した「伝聞記」の白蛇伝説と結びつける見解は見当たらない。が、筆者はその由来を確信している。
(…と思いつつ、他に誰も言ってないからちょっと自信がない。何か見落としてるのかな。)
一方、現代の根津神社では、なんと「白蛇」をモチーフにしたお守りを売っている。タイトル画像がそれだ。お値段700円(2024年現在)。
だが、これは境内の「願掛け榧(カヤ)の木」に住むという「神使の白蛇」にちなんだもので、今回紹介したストーリーには一切触れていないのである。なぜなんだ!カヤの木って何だ!
(なお、このカヤの木も、古い文献では言及がなく、いつからあるのか調べてみたいところではある。)