見出し画像

根津神社考1(御府内備考・同続編)

 文京区に鎮座する根津神社。
 その由緒を識るべく、各種の文献にあたっていく。
 今の本殿ができたのが江戸時代というなら、まずはその時代の文献を。

根津神社本殿(wikimedia commons)

 江戸時代の地誌としては、幕府の命で文化7年(1810年)から編纂された官選地誌「新編武蔵風土記稿」「御府内備考」「御府内備考続編」がある。
 東京都公文書館の説明によると、「新編武蔵風土記稿」から着手され、当初は、江戸府内も含める計画であったが、あまりに膨大となり、村と町では記載内容も異なることから、江戸の地誌は別立てすることとし、「御府内備考」をまとめ、それを基礎として「御府内風土記」を編纂した。ただし、「御府内風土記」は明治5年の火事により失われてしまい、難を逃れた「備考」のみが現存しているとのこと。
 では、その「御府内備考」を見てみよう。

御府内備考(文政12年(1829年))

御府内備考(文政12年(1829年))
 根津は下谷池之端に続き谷中三崎に隣れり、依之谷中に近き故多く今谷中の内に入といえども、実は駒込千駄木の地なり【江戸図説】案に根津の地名は根津権現鎮座以来の唱へなるへし 【神社略記】根津権現の条に根津といふは鼠のいはれにや、是大黒天を祭るならん、ことに天井又は絵馬などに鼠を多く書て見ゆれば大黒の社なる事決せりと見えたり、社の旧地は千駄木御林の傍にて今もその所を元根津と呼へり

 御府内備考 巻二十五 文政12年(1829年)

 根津の地理的な位置に触れた上で、いくつかの文献を引くだけで根津神社の由来の詳しい説明はない。
 「大黒天を祭る」というのも現在の説明と異なる。

 実は、江戸時代の地誌は、江戸の町方を対象として編集されていったが、寺院に関する関連史料には誤りが多いことが認識され、各寺社から書き上げられた記録(寺社書上)をもとに、寺社に係る地誌「御府内備考続編」が編集されている。
 「続編」では、根津権現についても詳細な記載がなされている。
 ここでは冒頭だけ見てみよう。

御府内備考続編(文政12年(1829年))

御府内備考続編(文政12年(1829年))
根津権現社(拝領社地、二万二千三十坪余 門前町屋有之)根津御朱印社領五百石
 当社勧請之年代不詳、 駒込惣鎮守ニ而千駄木村ニ鎮座有之、 神躰素盞嗚尊本地十一面観音、 相殿二社山王権現本地薬師八幡宮本地阿弥陀、 是を根津三社大権現と申奉る、 中頃太田道灌の再興有之候共云、万治年中の頃迄別当も無之、駒込村草分百姓山本八左衛門青木六左衛門野口次郎左衛門岡田三左衛門奥田利兵衛なと云者集り、年々の祭礼供物等を捧取賄いしと也、右之者共別当これなきを歎き、本郷昌泉院清英法印を別当に頼置しか二代目智証相繼す、(いずれも住職等年月知れず)三代目宥雄に至り、宝永三戌年根津大権現の宮居を千駄木村より池之端甲府中納言綱豊公御殿跡へ引地御造営有之候

御府内備考続編巻之十 神社部十 文政12年(1829年)
テキストは東京都神社史料 第1輯(東京都神社庁1966)より 

(大意)
 ・勧請(神様を迎えること≒創建)の年代は分からない
 ・駒込の総鎮守として千駄木村に鎮座していた。
 ・御神体は、素戔嗚尊、相殿は、山王権現と八幡宮。3つ合わせて「根津三社大権現」。
 ・太田道灌が再興したともいう。
 ・万治年中(1658~1661年)の頃まで、別当(管理する寺・僧)がなかった。
 ・駒込村の山下八左衛門らが毎年祭礼、供物などをあげてきたが、本郷昌泉院に別当になってくれるよう頼んだ。
 ・宝永3年(1706年)、3代目別当宥雄の頃、千駄木村から今の場所(池之端甲府中納言綱豊公御殿)に遷宮した。


 祭神・相殿などは、現在のホームページによる説明と同じだが、創建がいつの頃かは分からないとし、現在の根津神社は、宝永3年(1706年)に千駄木から引っ越してきたものだと示されている。

 では、当時の地図で確認してみよう。

 まずは、現在の地図。地下鉄根津駅から徒歩10分足らず。
 右下(東南)に見えるのは上野不忍池。その西側を通る不忍通りを北上すると、西側に鎮座するのが「根津神社」。
 もう一つの目印として、東京大学の西側を走る都道17号線(本郷通り)が、東大前駅の付近でY字路となっている(本郷追分)のを覚えておいてほしい。

 では、移転したのが宝永3年(1706年)というなら、その前後の古地図を見てみよう(※45度傾けている。)。いずれの地図にも、右下に不忍池、左手に本郷追分が今と同様に確認できる。同じ版元なので比較がし易い。

(左)元禄江戸大繪圖(宝永2年頃)          (右)江戸全圖(宝永4年頃)

 左の地図では、今の根津神社の場所も含め、根津の北側一帯が「西御丸御用屋敷」とされ、葵の紋が添えられている。根津神社の姿はない
 ではどこにあったかというと、その北側の赤く囲った場所に小さい社がある。よく見ると、小さい文字で「子ス(ねず)ノゴンゲン」。これが移転前の「ねずのごんげん」である。(なお、移転後は「根津権現旧地」「元根津」などと呼ばれ、現在は文京区立本郷図書館がある。)

 一方、宝永3年をまたいだ右の地図では、今の根津神社の位置に鳥居や社殿が描かれており、大きく「根津権現」とある。その敷地は今よりもずっと広く、おおむね今の根津の北側全域で、北は千駄木、東は谷中と接している。

 このように、今の根津神社は、宝永3年頃に北側の「ねずのごんげん」を、今の場所に移してきたものであることがわかる。
 「続編」では、移転地を「甲府中納言綱豊公御殿」としているが、ここでは「西御丸御用屋鋪」。これらは、同じ屋敷(敷地)を指している。

 いったいどういう経緯で移転がなされたのか。
 次稿では、その経緯を詳しく掘り下げていきたい。

いいなと思ったら応援しよう!