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HBOドラマ『チェルノブイリ』を見て考えたこと

昨晩、2019年に公開されたHBOドラマの『チェルノブイリ』日本語字幕版をamazon prime videoで全5話いっき見した。


凄まじい臨場感で、吐き気や震えを抑えながらなんとか見終わった。
3話目くらいで今日はここまでにしようかなとも思ったが、たぶんもうこの世界に再ログインできないだろうと思ってなんとか見きった。見終わった直後の感想は


「もうやだ。疲れた。辛い。しかもこの問題は現実だし今も解決してないじゃん・・・。」

深夜2時に見終わって、言葉を失い、ちょっとの物音でびくびくしながらとりあえず寝た。
しかし、翌日になって冷静に、改めて素晴らしい作品だと思った。

今はなきソ連時代の街並みやあれだけの巨大事故の再現力の高さ、登場人物たちの織り成す物語描写は大袈裟過ぎず無機質過ぎることもなく、いろんな立場の人たちがいろんな経路で巻き込まれていく様子がテンポよくかつ丁寧。カメラワークや色調、音響も絶妙でどのシーンも絵になり脳裏に焼きついた。あれだけのものを作ることができたHBO制作チームに脱帽する。

直後の感覚は以前見た映画「野火」や「サウルの息子」を見たあとに近かった。登場人物のすぐ隣に自分がいて共にサバイブしている感覚。

塚本晋也監督の『野火』は第二次世界大戦の敗戦間近のレイテ島で一等兵の主人公が極限状況で生き延びる物語。

『サウルの息子』はアウシュビッツ強制収容所において、ユダヤ人でありながら同胞をガス室に送り込む任務につかされるゾンダーコマンドの過酷な境遇を描いた物語。この作品はカメラワークが特徴的で、主人公サウルの背中にぴったりと張り付き常に目前にサウルの表情が見えるような画となっている。そのせいで自分もサウルと一緒にゾンダーコマンドの一員になっているかのような感覚になり、状況を俯瞰から客観視できないのである。

HBO『チェルノブイリ』もこれらと同様、鑑賞者という安全地帯に安住できず、ほとんどシームレスに映画の中の登場人物とシンクロしてしまう。感情移入という言葉では物足りない。疑似体験、追体験といった方が近いかな。とりわけ、目に見えない放射能のおそろしさの表現は見事で、スクリーン越しのこちらにまで襲ってきそうな勢いだった。強烈なトラウマ。

そこまで生々しく感じたのはチェルノブイリツアーに参加したことも大きい。ドラマに出てくる発電所内の構造やプリピャチの街並み、土地の距離感などが現地で見てきたリアルな記憶と重なり、自分と地続きの話として見ることができた。
体験する前後でぱっきりと認識が変わってしまって、もう体験前には戻れない。
実体験でないにも関わらずそういうものをもたらすことができるのが、文化芸術のすごいところだと感じた。これは知識だけでは果たせないことだ。

放射能のおそろしさは知識では頭に入っていても、感覚・感情とは紐付いていなかった。それが現地に訪問して、その場の廃墟の街の色や匂い、虻の音、犬の遠吠え、元作業員のまなざし、自主帰還者のおじいさんの生活風景、それらを五感で吸収してようやく一、二歩、知識が身体感覚に近付いて、そして今回のドラマでまた少し進んだ。
知識が身体感覚を伴わないと、ときに人は正しい判断をできなくなってしまう。もちろん感覚にまどわされて理性を失うことはよくないと思う。でも理性だけで計算するようにものごとを判断すると、計算不可能な「人間の心」を見落とす。心の集合体が社会を構成してる以上、それは忘れてはならないし、テクノロジーの発展に伴ってますます「身体でもって体験していくこと」が不要になっていく今、より一層注意しないといけないなと思う。「知識が足りないことよりも感情が腐ることの方がまずい。」と自分に言い聞かせている。(とはいえ知識も圧倒的に必要・・・)

ドラマの話に戻ると、チェルノブイリ原発事故時、現場を見ていない幹部たちがまさか原子炉で爆発が起きるなんて信じられず、確認に行かせて不必要に犠牲者を出したり、事態を低く見積もって報告したりして収束活動を遅らせているのが印象的だった。突然とんでもないことが起きたときの責任者たちの正常性バイアスを解除することがいかに難しいかということを突きつけられた。それは「ソ連の共産主義体制だったから」と片付けられればどんなに楽か。確かに当時は冷戦下で対外的な体裁を極度に気にしていたし、官僚主義や隠蔽体質がもたらした事故ではある。でもこれは日々自分の身近で起きていることの延長線上にある問題であり全然他人事じゃないなと思った。シンプルに、私が責任者でこんなことがあったら私は事態を冷静に把握できるか?逃げ出さないか?いや・・・(ぶるぶる) と思った。

フィクションではあるけれども、原発の仕組みについてや、致死量の放射能で被曝するとどういう状態(見た目とか)になってしまうのか大枠知ることができた。そして何よりあの事故にどういう人たちがどういう立場から巻き込まれていったのか、発電所関係者、政府、科学者、消防士、それらの奥さんたち、炭鉱夫、病院の医師・看護師、危険区域に留まろうとする老人たち(ドラマで描かれていた老婆は「ホロドモールも大祖国戦争のときもここで暮らし続けた。立ち去る理由がない。」と言っていた)、軍のリクビダートル(事故処理員)、殺された動物たち、それらの描写が短くも丁寧で、ひとりひとりの状況に思いを馳せることができたのがよかった。

そういえば、石炭相が炭鉱に出向いて炭鉱夫たちに助けを求め、頭領が了承するシーンがめっちゃ好きだったな。炭鉱夫についてシチェルビナが語った
「暗闇で働く者は全てを見透かす」
が心に残った。
頭領の、ごまかしのシナリオで動員しようったってそんな茶番には乗っからねーぞとばかりの断固とした態度がめちゃかっこよかった笑。

ドキュメンタリーとして見ると事実と異なる部分もあるようで、あくまでフィクション。でもフィクションだからこそ描ける真実もあると思う。真実は事実ではないので、事実の羅列で真実が描けるわけではないから、こうしたドラマや映画、文学などの芸術表現が必要なんだと改めて感じた。

それにしても、こういうものがこのクオリティで生みだされたということがすごい。わずか34年前の事故で、加害者も被害者もその家族も存命である出来事をこうしてリアルに描けたことがすごいと思った。
でもソ連崩壊後である今だからこそ、共産主義システムを悪者にできたから、そして外国であるアメリカだからこのドラマを作ることができたのだろうか?
現在進行中の問題、加害者が明確でなかったり未だ存命であったり、被害者側にも色々な立場があって意見や想いが割れているもの、現実にはそんなものばかりだが、そのような渦中から表現物を生み出すことは相当難しいことだろうと思った。
全てが終わって何らかの結論が出て、悪者が決まったあとでしか問題提起を描けないのだとしたら、やはりそれは不十分で、その間を埋める何かが必要だ。

幸い、一応、私たちの住むこの国には表現の自由があって何を発信してもよい土壌があるし、それに誰もが自由にアクセスすることができる。この状態を健全に機能させつつ、この課題を乗り越えることについて考え続けようと思った。

一昨年、参加したゲンロンとH.I.S.主催のチェルノブイリツアーの記録はこちらから


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