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第九歌集『キケンの水位』奥村晃作鑑賞

「現代ただごと歌」の提唱者である歌人 奥村晃作の歌集を一から最新作まで順に読んでいきます。(奥村晃作氏の紹介はこちらをご参照)
第一歌集『三齢幼虫』、第二歌集、『鬱と空』、第三歌集の『鴇色の足』、第四歌集『父さんのうた』、第五歌集『蟻ん子とガリバー』、第六歌集『都市空間』、第七歌集『男の眼』、第八歌集『ピシリと決まる』まで紹介しました。今回は第九歌集『キケンの水位』です。
これまでの記事はマガジン「歌人 奥村晃作の作品を読む」をご参照。

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前回より、歌集全体から七首選んで鑑賞する方式をとっています。
今回の歌集『キケンの水位』からも七首代表してご紹介したいと思います。

奥村晃作 第九歌集『キケンの水位』

奥村晃作歌集『キケンの水位』短歌研究社より抜粋

 2001年から2003年までの、新世紀を迎えてから二年半の作品を収めた本歌集。当時の時代を象徴するような時事詠が印象的だ。911アメリカ同時多発テロ、北朝鮮の拉致被害者の帰国、イラク戦争など。奥村は激動する世界情勢に驚愕、困惑しつつも、ぶれずに反戦を歌う。あれから20年経った今でも、なんだか世界は同じ過ちを繰り返しているようで、奥村の歌はあいも変わらず響いてくる。今回は、そんな多くの歌の中でも特に普遍性を持った、背景情報なくとも胸に刺さる歌を選んでみた。また時事詠の他にも奥村らしさあふれる日常詠からもいくつか採った。

母は昔よい顔してたが現在はよい顔でないことの悲しさ

 「よい顔」とはどんな顔だろう。笑顔なのか健康的な顔なのか美人顔なのか。そこは明かされず、ただ素朴に「よい顔」と歌われている。「よい顔」という大きな括りの表現によってそこは空洞になり、読者の想像を掻き立てる効果もあるし、あるいは「よい顔」というのは作者からみた主観的な感覚なので、第三者は立ち入ることのできない奥村と母親の関係性も浮かび上がってくる。
 「昔よい顔」「現在はよい顔でない」と上の句から下の句にかけての対比的な表現。ここには世界の諸行無常、そして必ずしもハッピーエンドばかりが人生ではないことが歌われている。母親がよい顔でなくなって悲しい、そのことを述べるだけでは事実が流れてしまうだけだが、57577の歌にすることで美を帯びて人の心に留まるのが短歌の力だ。
 母をよい顔の時代からよい顔でなくなった現在までずっと見つめつづけ悲しんでいる息子の光景は深い愛の姿として読者の胸に残っていく。

接近し まごうことなき旅客機がビルの胸部に激突したり

 これは当時を生きていた人ならすぐにわかるだろう。2001年に発生した911アメリカ同時多発テロ事件。ハイジャックされた旅客機がまさにビルに激突する瞬間を歌ったものである。日本でも夜9時頃、ニュースの生放送で二機目の激突を目の当たりにした人は多かっただろう。当時中学生だった私もお風呂上がりにリビングに戻ると父親が「大変だ!」とテレビを指さしていて一緒に凝視したのを覚えている。
 「ビルの胸部に激突したり」まさにビルの上から三分の一くらいのところ、胸のあたりにハイジャックされた旅客機が突っ込んでいった。その光景のショックは、それをテレビの前で見ていた我々の胸にもズドンと刺さった。「胸部に激突したり」は出来事の的確な描写であると同時にショックを受けた世界中の人々、そしてこの短歌を読んでいる人もシンクロして胸を痛く貫く。
 「まごうことなき」も的確で、まさにまごうことなき激突だった。without any confusion。確信的な意志が見えるようだった。
 「接近し」のあとの一文字の空白。そこには一瞬、無音になるようなはりつめた緊張感が込められている。信じられない、信じたくない、受け入れがたいものを目の当たりにしたときの一瞬の空白の間。そんなものを表しているように思う。

支持率が八割超えて伸びる時かつても今もキケンの水位

 歌集タイトルでもあるこの結句の「キケンの水位」、キケンのカタカナが効いていて印象的だ。911テロ後のアメリカ情勢を背景とした歌であるが、「かつても今も」とあるように、いつの時代も国民の熱狂と賛同が最終的に国を戦争に駆り立てていく。民主主義は単純にそれ自体よいものなのではなく、正常に機能させなくてはキケンだという警鐘を鳴らしている。標語、教訓タイプの歌。定形ぴったりで強い意志を感じる。やはり「キケンの水位」という造語的言葉遣いが奥村らしい。歌集タイトルを読んだときは海などの増水のことだと思った。歌集の中身を読んでみて、まさか支持率のことだとはと驚いた。言葉を、普段使う用途と少しずらして使うのが奥村らしさであり、歌ならではの表現だ。「八割超えて」という具体も必然的だ。民衆の勢いを感じさせるし、末尾の「水位」と対応している。

こんぽんの こんぽん的な こんぽんの 解決難し 報復のBOMB

 朗読してみるとわかるが、体の内部から口にかけてふくらむ空気のはちきれそうな感覚が、実にやりきれない、どうしたものかという悔しさ、狂おしさを表しているように思う。「こんぽん」三連続がひらがな書きであることが「根本」という意味を解体して、その音の感覚に我々を注目させる。全ての句のあいだに空白があるのも特徴的だ。短歌ではよほどの意図がない限り空白は使わない。会心の一撃のようなものだが、それを全ての句のあいだに使っているというのは、なめらかな韻律を意識的に破壊しているということだろう。するすると行きたくない、行かせたくないという。そして言うまでもなく結句の「BOMB」と上の句の「こんぽん」の破裂音が呼応しており、歌全体で乱発される爆弾の存在を彷彿とさせている。

飛行機の窓からのぞく下の空いつものような青い空見ゆ

 飛行機からの眺めを詠んだ歌。空は上にあるものだが、飛行機からの眺めでは「下の空」を見ることができる。素朴な言葉選びが非日常の感動を引き立てる。「下の空」なんて普段見るものじゃないけれど、それがまた「いつものような青い空」というところがちょっと期待外れで面白い。下から見る空も上から見る空もいつもと同じ、青い空。
 「見ゆ」というやわらかな締め方も気持ちよい。

どこまでが空かと思い 結局は 地上スレスレまで空である

 奥村作品に代表される【気付き、発見、認識系】のただごと歌である。奥村さんはよく「言われてみるとそうだなぁと思う認識系の歌」という説明をされる。ただそれ以上に奥村短歌には何かそこはかとない力があるのだ。問いの立て方、答えの出し方、そして歌のフォルム。誰にとってもあたりまえなものに対する素朴な疑問とそれに対する独自の見解。そしてスレスレの言葉選びとカタカナ表記が効いている。「結局は」の前後に空白があるのも、問いに立ち止まって考えているを表しているようで面白い。

真ん中に身は移しつつ四人乗りリフトに一人運ばれて行く

 なんてことはないスキーレジャーのワンシーンであるが、見過ごされがちなこういう瞬間を照らせるのが短歌のすばらしいところ。家族や友人とスキーに行って、タイミングのせいでリフトに一人で乗らなきゃいけなくなること、あるだろう。1ミリくらい寂しいけれど、真っ白なゲレンデを見下ろしながら数分ひとりで過ごす時間も優雅で贅沢。四人乗りリフトに一人で端に乗るとバランスが悪くてあぶないのでお尻をちょっとずつ真ん中に移して安定させて一息つく。上の句は能動で(身は移しつつ)、下の句は受動(運ばれて行く)のバランスよい。しっかり身を保ちバランスをとりつつ、リフトの動きに乗せられるがままという控えめさを兼ねる。そんな人間の慎ましさに光を当てている。

次回は第十歌集『スキーは板に乗ってるだけで』です。お楽しみに!


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