530円で買った心の休息
今日「喫茶店で読書をしたい」とふいに思い立った私は、家のすぐ近くにある喫茶店に立ち寄った。一人で喫茶店に入るなんていつぶりだろう。少し緊張していた。
店主は初老の綺麗な女性で、素敵な笑顔で冷たいお水をサーブしてくれた。メニューの一番上にあったレギュラーコーヒーを注文。
店は喧騒から外れた穏やかな雰囲気を漂わせていた。喫茶店独特の煙草の曇った匂いが、ブラウンを基調とした店内を優しく包んでいる。座席のとなりの植物はカーテンのような役割を果たしており、その隙間から僅かに店内を覗くことができた。
まるで母の実家に帰省したような、日常から切り離されたような感覚があり、コーヒーを一口飲む頃にはもう緊張はほぐれ安堵していた。
近頃は河合隼雄先生の『心の処方箋』という本を読んでいるが、これもまた喫茶店にぴったりの、名前のとおりとても優しい本だ。
実を言うと私は今年の2月頃から心身の不調があり、端的に言うと「ただ歩いているだけで責められているような」「人に視線を向けられるとこわい」そんな気持ちになることがあった。
コロナの自粛期間がよい休養となりかなり良くなってはいたのだが、父が緊急入院してからというもの、再びすっかり疲弊していた。
ここのところ父の病状についての心労や、家庭のことや自分のことなど、考えなければならないことが山積みで、休み方を忘れていたように思う。
喫茶店での時間は家よりもホッとできるように感じたが、むしろ家の方があれこれと考えなければいけないような気がしてしまうものかもしれない。
お店には小1時間ほど滞在した。
530円のお会計を済ませて店を出たとき、私はたいへん驚いた。
先程までとは一変して、世界が、町が、私に対してとても穏やかで寛容であるように感じたのだ。道行く人々の苦労や幸福、そういったものにまで意識が向くのを感じた。
それは私にとって久しぶりの感覚で、なんだか嬉しくて涙が溢れそうになった。心の休息とは、このようなことを言うのだと納得した。
ほんの少し、ほんの一時でもいいのだ、自分を煩わしい事柄や生活から切り離して、僅かな贅沢を嗜む。
これが心にとって、本当によく効くのかもしれない。
もちろん休み方は人それぞれで、都会のクラブで大騒ぎする方がよい、とにかく眠るのがよい、運動するのがよい、たらふく食べるのがよい、という人もいるだろう。
ただいずれも、一度そのことを忘れてみる、という点では共通しているのではないだろうか。
いつまでも物事の渦中に自分を置いていては、すっかり疲れてしまうし、誰かが自分をそこから取り出して休ませてくれるということはあまり期待できないだろう。他人に自分の気持ちを完全にわからせることなんてできないのだから。
もちろん人に頼るということは非常に大切で、心のうちを吐き出すことができないでいると、自分でも気づかないうちに心身ともに壊れてしまうものだ。
しかしいくら人に頼ることができても、肝心の自分が自分を追い詰めているのでは、疲労は中々とれないままだ。
自分で自分を労ってあげる
これだけのことが私たちにはどうにも難しくて仕方がない。頑張っているときほどそれを甘えのように感じて、休むことを避けて生活してしまうという状況も生まれがちだ。
しかし休むことはけして、甘えではない。休むことは生きるうえで当然の権利である。
休もうと思ってあれこれ試しても休めていない場合、本当にそれが自分にとって休息になっているのか、見直してみるとよいのではないだろうか。まだ試していないことが力を発揮してくれるかもしれない。
あれこれ考えることにすら疲れてしまうなら、潔く病院へ行くことも1つの手段だ。病院は弱者のものではないし、実際そこまで敷居の高いものでもない。
不調であるならば受診する権利は誰にでもある。
何とかなる、大したことない、自分より大変な人はたくさんいる…
そんな考えが命取りになると私は日々感じている。もちろん私も例外ではない。
私は今日、530円で上質な休息と幸福を得た。
明日にはまた元気がなくなっているとしても、来週もこの喫茶店に立ち寄り、今度は違うコーヒーを頼んでみようと思う。