悲しみに形を持たせること
父を亡くして1年。
今回は、私が愛する人を失った悲嘆を受け入れようとする中で考えたことをお話しする。
約3ヶ月前、重度訪問介護のアルバイトを始めるため、資格を取得した。その後紆余曲折あり、結局そこでは働かず、心理系オフィスでのアルバイトを開始することになった。
新しいバイトは、自分の目指す道筋と直接関わっている分野であるし、待遇もよく、とても充実している。そこで、重度訪問介護をやろうと思った当時の私について、少しだけ、思いを馳せた。
重度訪問介護では、ALSなどの難病を始めとした重度障害者の方の支援を行うため、お看取りということも十分にありえる。
大切な人を亡くして1年も経っていない私がなぜ、自分がわざわざ苦しくなるような場所を選んだのか。
もちろん決断した時も、ある程度わかっていた。自分の悲しみや、色濃い記憶、体験を、何かしら意味あるものにしたかったのだ。
短期間であんなにも大変な思いをしたのに、ただ苦しいだけで何の形も持っていないことが、凄く勿体なくて、「意味はあったんだ」と叫びたい気持ちだった。
そうやって喪失の悲嘆を乗り越えようと、似通った悲嘆に近づいた過程で得られるものは、確かに大きな意味を持っているはずではある。
けれども、その似通った悲嘆が繰り返されることは、自分を悲嘆に閉じ込める、ということにもなりかねない。間違いなくそこには焦りがあったのだろうと思う。
勿論けして無意味ではなくて、そういう職業選択の仕方をする人だって世の中には(特に心理・福祉業界には)溢れているはずだが、バーンアウトの危険因子でもあるような気がする。
完全に救われてない自分を救うために近づきたくなってしまうのは、ままあることだろう。
ただそのようにして支援団体などが生まれていくというような側面もある。自分と同じような思いをした人を支援したい、とか、自分がやりきれなかったことを他の人に、とか。
そういったことは社会的意義があるし、支援者側が救われる側面もある。消化しきれないものを昇華して、自己実現が可能になるわけだ。
こういう、悲しみに形を持たせることの意味やリスクを踏まえて、一つ思うのは、「悲しみに形を持たせない」とはどういうことだろうか、ということである。
悲しみに形を持たせなければ、人はどうなるだろうか。
悲しみに支配されて、苦しいまま藻搔いて、壊れてしまうかもしれない。一生救われずに。
では、形を持たせたらば人は完全に救われるのか?私はそうではないと思う。どんなに悲しみに形を持たせて、意味を見出したとしても、どこか救われきらない部分が、一生心のどこかに、住み続けると思う。
大切なのは、救われることでも、乗り越えることでも、忘れ去ることでも、塗り替えることでもなくて、悲しみを抱えておける心のお皿を、悲しみが落ちてしまわないような硬さ・深さにしておくこと。
落ちてしまえば、たちまち割れて、心を染めてしまうだろう。
仮に落ちたとしても破片が突き刺さらないように、その悲しみを程よい柔らかさにしておくことも大切だ。
私たちは乗り越えられない悲しみを、語ることや、表現することで、程よい柔らかさにして、そして抱え続ける。そうすることで、オーダーメイドの「ちょうどいいお皿」が出来ていくのかもしれない。