優しさについて、長い間考えていた。②
はじめは12歳のとき。
ジャポニカ学習帳の縦リーダー入り12行、通称[自主ノート]に、私は私の内なるものを書き詰めていた。それで国語の点数が貰えたのだ。
国語の先生は3年間担任でもあったが、私にとって一生忘れることのない恩師である。
思えばその頃は、今よりももっとよく考え、そしてよく悩んでいた。
向き合って向き合って、ぐちゃぐちゃになっていた。
それは、ある種の強さだったかもしれないと今では思う。
大人になるためそして強くなるために、ある種の豊かさや強さを、私たちは捨てているのかもしれない。
考え方や価値観、当時から様々なものが変わった。
しかし、優しさに対する捉え方だけは一貫して変わっていない。
私が思う優しさの本質とは、
自分と相手が違う人間だと理解し、その上で何が相手のためになるかを考えること
ではないかと思っている。
共感能力は才能であり、愛だ。
しかし、それ自体は優しさではない。
それを持って相手の感情にのめり込み自分と相手の境界線を見誤れば、「相手のため」だけではなくなる。
「相手のため」に何かをしてあげることも、それ自体では優しさにはなり得ないし、「自分ならどうされたら嬉しいか」と考えることでも、自分の意見を曲げずに伝えることでもない。
このように人に接するときは、自分の延長線上に相手を捉えている状態であり、自己愛の産物に過ぎないのだと私は思う。
自分ならどうするか
ではなく
自分はどうあるべきか
でもなく
その人がどうしてほしいか
でもなく
何が本当にその人のためになるか
ときにそれは敵意に見えるかもしれない。相手を深く傷つけるかもしれない。必ずしも相手の信頼や好意といった結果が得られるわけではない。
けれどもそこにある優しさの尊厳は消えてなくならない。
このようにして考えてばかりいるものの、私がその優しさを自然に持ち続けられる日はくるのだろうか。
人生は短いようで、果てしなく長くも感じる。