ぎんなんの思い出
街路樹のイチョウに、もうぎんなんがなっている。
なんかいつまでも暑いので思い出しもしなかったが、あの臭いを嗅ぐと、否が応でも秋だなと実感する。(実際しばらく前まで、お茶屋さんの前でよく売ってたグリーンティの粉末を血眼になって探していた)
毎年、道端に落ちた実を皆が踏んづけてえらいことになっている。なんで避けないんだろう。自転車なのかもしれないが、場合によっては絨毯みたいに広がっていて、車道に避難して歩くこともある。
もうひとつ不思議なのは、誰も拾わんのだなということ。
というのも、皆が踏んづけていき、種がコロコロ転がっているのである。ラッキーやん。むき身やん。しかし、拾うのもなかなか勇気がいるか。でも帰りに誰も拾ってなかったら貰って帰ろと思いつつ、買い出しに向かった。
ぎんなんの美味しさを知ったのはだいぶ幼い頃で、あの不思議な食感と色合いにうっとりした。
ぎんなん、美味しいねー。そういえば学校にもいっぱいなってたよー。などと母に話したばっかりに、拾ってこい、と命じられてしまった。
なんと酷な指令だろうか。知らんのか、小学生の間では◯ンコの実て言われとるんやぞ。
もちろん幼い身ながら汚名を着せられる可能性を恐れ、ええ、いややぁー…と拒絶してみたが、いつも美味しい美味しい言うて食べてるやろ!取ってき!などど、取りつく島もない。鬼の所業である。
結局、誰かが踏んづけた種をふたつぶほど拾って帰ったが、こんなちょびっと拾てきてどないすんねん!と叱られた。鬼畜や。母よ、私は忘れてないからな…
まあ当時より厚顔無恥になっているとはいえ、人目を避けたい気持ちはある。誰も通りかからないタイミングを見計らい、あたりを伺いつつ、モジモジ拾うので、いつも茶碗蒸しに入れるくらいしか拾わない。
昨日は炊き込みご飯にいれたかったので、おどおどしつつ、転がっていた種を10粒ほど拾った。
帰って種をしっかり洗って、夕方頃には乾いていたのでフライパンで炒った。
これもどれくらい火にかけたらいいのかよく分からないが、うっっっすら殻が茶色っぽくなるので、それくらいの頃合いでやめている。
昔テレビで紙袋に入れてレンチンすれば簡単と言っていたが、確かに簡単で美味しいが何粒かは爆発するので、ドキドキするからやめた。
火からおろして、すぐにまな板の上で叩き割る。これも力加減がむつかしい。瓶の底でガツガツやるのだが、力を入れすぎると潰れるし、入れないとコロコロ逃げて割れない。ヒビが入るくらいが理想的なのだが…
殻の中から現れた炒りぎんなんは美しい。猫の目みたいな綺麗な黄緑色。口に入れるともちもちして甘く、ほろ苦い。美味すぎ。
つまみ食いしてしまったので、炊き込みご飯の中には刻んで入れた。探さないと見つからないので、ぎんなんご飯というより、アラメご飯ぎんなん入りではあったが。
八百屋さんで見つけたら、ぎんなんごろごろご飯を作ろう…