ブランキー解散翌年のライジングサン
「小さな恋のメロディ」というブランキーの曲があるけど、その歌詞の「俺の血はそいつでできてる」の「そいつ」は、私にとってはブランキージェットシティだよなと思う。
他にも自分にとって特別な音楽は色々とあるし、それぞれのカラーで特別であり続けているけれど、10代後半から繰り返し聴いて、横浜アリーナでとんでもない解散ライブを目の当たりにさせられたブランキーは、何というか、とりわけ特別なのだ。
ブランキー解散の翌年、ライジングサンに行った。当時大学1年生。
高校の教室で、1999年のレポートが載ったジャパンをボロボロになるまで読んでいた、憧れのエゾロック。
友人と勇気を振り絞ってJTBの羽田発のパックツアーに申し込み(勇気を振り絞ってパックツアーを選ぶのが大学1年生らしい)、向かった石狩。
初めてのフェス、初めての友人との旅行、とにかく全てがドキドキだった。
ライジングサンのステージは最高に素晴らしかった(ロザリオスもSHERBETSもミッシェルもハイロウズもナンバガもUAも出ていた)し、ロケーション(空と大地とステージと音楽と食べ物しかない!見渡す限り建物などもなく、石狩平野にぽつんとあらわれた楽園、みたいだった。当時は商業色も、今ほど濃く無かったと思う)も最高だったのだが、ここでは達也さんのセッションのことを書きたい。
近年では予めタイムテーブルに枠が取られている(当たり前だが)達也さんのセッションだが、2001年のライジングサンでは、会場の真ん中に素っ気ない小さなテントがあって(一応ステージバックはあった)、その、ステージも何も無い場所で、特にアナウンスもなく(たぶん)、深夜達也さんを中心にセッションが始まった。
本当に狭いスペースで、達也さんとTOKIEさん,tatsuさん達とのセッションを見ることができた。UAもふらっときて、ゴキゲンに即興で歌っていた。
しばらくすると、ベンジーがテントの脇をウロウロし始める。
名前を呼んだらどこかへ行ってしまいそうで、ぎゅうぎゅうの観客全員で念力を送った(と思う)
しばらくして、ベンジーがベースを手に「誰かピック持ってない?」と入ってきた。
ピック!出かけに机の上にあったのに!!と後悔したのも束の間、誰かが渡したピックでベンジーが演奏しはじめた。
想像して下さい私たちの熱狂を…
もう達也さんのドラムで歌うベンジーが見られるなんて思ってなかったのに今この場は何…夢…?
照井さんー!きてー!ここですー!石狩ー!と心の中で叫ばずにはいられなかった。
そのセッション会場の前は、もはや一帯がライブハウスの最前列のような密着度だっだが、みんなが笑顔で、その特別なセッションを一瞬たりと聴き逃すまい見逃すまいとしていた。
まったくのフリーなセッションからブランキーを思わせる即興の曲など、ベンジーは宇宙語で歌いながらベースを数十分弾いてその場を離れたのだったが、気付けばあたりは白みはじめ、私たちは寒さも忘れたまま、最高の日の出を迎えたのだった。
写ルンですで撮った、友人と私の最高の笑顔の写真が残っている。化粧も何もあったものではなく、小学生のような全力の笑顔で写真に収まっている。
その後わたしは都合4回ライジングサンに行ったのだが、この年のミラクルが、私にとってライジングサンを特別なフェスにしたのは間違い無いと思う。
ブランキーの再結成、望みは薄そうなことは承知しているし、しなくていいでしょうと一ファンとしてもずっと思っていたが、先日達也さんが千原ジュニア氏と話している映像を見て、今の3人が鳴らす音を聴いてみたい…という気持ちを確実に覚えた。
もしその機会があるのならば、どんな手を使ってもその場に行って、3人の演奏を体感したい。
ラストダンスのエンドロールで「and YOU」のクレジットが出てから、ずっと、あの街を離れられずにいるんだよ。