安岡正篤について+春から大学院生

今年の春から、拓殖大学地方政治行政大学院修士課程に入学が決まりました。そこで研究するのは、安岡正篤の政治思想です。

安岡正篤、若い人で、この名前を知っている人はほとんどいなく。

大学時代でも1000人学生がいたら知っているのは1人いればいい方で、安岡の書を10冊以上愛読している10代、20代なんて100万人に1人いるかどうかなのでは?

それくらい馴染みのない人物ではありますが、どんな人物なのかざっくり述べると

 安岡正篤は明治31年(1898年)2月13日、大阪で商売を営んでいた堀田喜一の四男として大阪市順慶町に生まれる。正篤は幼少期は大阪市、中学卒業までは現在の大阪府四條畷市で育つ。当時においても珍しい『論語』『孟子』などの四書五経や漢詩をはじめとした中国古典、そして『太平記』『日本外史』などの古典教育を幼少から受けた。
 正篤は地元の四條畷中学校でも非常に成績優秀ではあったっが、堀田家の財政事情から進学する余裕がなかった。そこで正篤に音楽と漢文を指導した四條畷中学校の担当教師であった島長大がその才能を惜しんで奔走することとなった。その結果、島長大の友人で、もともとは土佐の資産家で、当時東京に出て日本通運の取締役をしている安岡盛治が名乗り出た。
 こうして1916年(大正5年)堀田正篤は安岡盛治の養子となり堀田から安岡姓となる。同年、第一高等学校第一部丙類(独法科)に首席で合格し上京する。しかし東洋政治学を志す安岡にとって、欧米で発達した近代政治学や哲学は、安岡が志向する様な学問と大きく異なり、心の修養と切り離された知性、知識偏重の授業に安岡は大きく失望する事となった。その学生時代の安岡の心の葛藤を以下のように述べている。


「新しい学校生活に慣れた僕は、その頃から堪らない寂寞を感じだした。一番痛切に意識したのは、いわゆる一高校生の案外浅薄な虚偽生活と、僕の想像に反して意外に先生たちに人格者に少ないことであった」(林繁之『安岡正篤先生人間像:随縁逍遥の記』より)


「あまりにも違うのです。今までやってきた『論語』『孟子』『大学』『中庸』あるいは『日本外史』『太平記』などというものと。田舎出の私には面食らうことばかりです。それまで読んだものはとにかく仁義・道徳・忠君愛国のことばかり書いてあった。ところが高等学校に入ると、反対のことばかり書いてある。みな仁義道徳だの、忠君愛国だのというものに疑問を持って、何か人間の悪というものを研究し、それを描写して、従来の人間観、国家間というようなものをことごとく打破する書物ばかりであった。(一部省略)そういうことをやっておるうちに、一つの大きな煩悶が起こってきた。やればやる程なんだか淋しくなる、もどかしくなる、じれったくなる、居ても立ってもおられなくなる。今日の言葉でいえばノイローゼ、その頃は神経衰弱という言葉が流行っていましたが、どうもその神経衰弱になる傾向がある。」(安岡正篤『人物を創る』より)


そこで安岡は先哲を求め図書館へ通い、古典教育に回帰していくことになった。第一高等学校入学以来、煩悶としていた感情が、『論語』や『孟子』、王陽明の『伝習録』、『太平記』や吉田松陰の著作、大塩平中斉(平八郎)の『洗心洞劄記』などの賢人の書を愛読することによって心の安寧を取り戻し、疑問にも感じていた西洋式の学校教育にも正面から向き合える様になっていく。
 

 第一高等学校卒業後の1919年(大正8年)には東京帝国大学法学部政治学科に入学、東洋哲学を中心にした言論活動を始める。論壇雑誌『日本及日本人』に「曽国藩の日記」の初寄稿を皮切りに数多くの論文を執筆、それらの論文はたちまち諸法からの注目を浴びるようになり、北一輝、大川周明、満川亀太郎といった思想家とも交わるようになる。そして大学在学中の1922年(大正11年)、大学の卒業記念として執筆した『王陽明研究』が出版され大きな反響を得る。そして大学卒業後は文部省(現・文部科学省)に奉職するも半年で退官する。同年、酒井忠正伯爵邸内に東洋思想研究所を設立し、そこから数多くの論文を発表。1923年(大正13年)には皇居旧本丸にある社会教育研究所で東洋哲学の講義を担当し、当時の牧野伸顕宮内大臣をはじめ、政界、軍の現役将校といった人々も安岡の講義を受ける事となり各界に人脈を広げていく。
 1927年(昭和2年)、酒井邸内の金鶏庭園内に金鶏学院を創立、続いて農村、地方のリーダーを育てるべく埼玉県菅谷村に日本農士学校を開校、青年の教育活動を行なう。1944年(昭和19年)小磯内閣が発足した際には大東亜省顧問を務め、首相や大東亜省兼任の重光葵外相に対して勢力下地域への政策に助言を与えたとされる。
 1945(昭和20)年8月15日の天皇陛下の「終戦の詔書」の刪修にあたり、”義命の存する所”と”万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス”いう文を入れたが、閣僚からは「義命」がわかりにくいという事になり幾度の修正を経て”時運の赴く所”に訂正された。後に安岡は自身の講演で、自分が修正した箇所とその真意を説明し、そのうち最も重要な部分がその後、安岡の意に反して再び変更されてしまったことを「終生の恨事」だと語った。

 そして終戦後、GHQによってA級戦犯として訴追される面々の中に安岡の名前が入っていることがわかり、中華民国の蒋介石総統が、安岡ほどの碩学を戦犯にするのはまったくの間違いだと考え、中国側の戦犯に指名するということにしてアメリカを説得を説得し、連合国の戦犯容疑者リストから外させた。安岡は訴追をは免れたもののGHQによって公職追放の身となり、金鶏学院は閉鎖され日本農士学校からも離れることとなり、数年の雌伏の時をむかえることになった。そして安岡の公職追放が解かれると1949年(昭和24年)には全国師友協会の設立し、講演や執筆、様々な勉強会の講師を務めるなど精力的に啓蒙活動を再開していく。財閥や大企業の経営者、官僚、政治家など各界のリーダー達が安岡の教えを請うようになり、経済界では住友生命の新井正明、クボタの廣慶太郎、コスモ証券の豊田良平、ウシオ電機の牛尾治郎、京セラの稲盛和夫。政治家には吉田茂、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳など錚々たる政治家たちの名前が上がる。
戦後の政界でターニングポイントとなるような場面でも、安岡は折に触れて政治家に助言を与えていたとされる。日米安保条約改定、沖縄返還、日中国交正常化といった日本外交の重大案件を処理する際にも、安岡は時の首相からアドバイスを求められ、各種演説・スピーチ・親書の草稿に筆を加えることもあった。こうした「政財界のリーダー」「歴代宰相の師」としての活躍がありながらも、安岡は表舞台に立つことはなく、メディアからの取材も受けることもほとんどなかった。1983年(昭和58年)逝去。1990年代には元号「平成」の考案者とも言われ再び注目が集まり、安岡の死後も数多くの講演録、経済雑誌での特集、関連書籍が刊行され続けている。

これが安岡の経歴です、なかなか濃い人物で歴史の教科書に載らないのが不思議なくらいの影響力を持った人物です。

参考動画、中田敦彦が語る安岡正篤↓

https://www.youtube.com/watch?v=MX53BE7kvUU&t=2s


中田さんのケネディの件は実は後任のジョンソン大統領の話なので少し事実とは違いますが、安岡を知る上で分かりやすい動画ではあります。

有名無力、無名有力

中田敦彦の顔出しを引退するのも、有名無力のデメリット(いわゆる有名税)をつくづく感じたのかもしれませんね、とにかくこんな研究を春から行います。何かしら安岡についてもnoteにアップしていければと思います。

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