つながり
なんとなくだけど、印象として、幼少期や思春期の体験ってその後の人生に大きな影響を与えているんじゃないかって思ってる。たとえば、有名なシンガーソングライターとかは、大好きだった家族や友達が、思いがけず早くに亡くなってしまったときの衝撃とかを歌にしたりしている。それとか、思春期の大人社会に対するやり場のない怒りとか反抗心とかも創作の原動力だったりする。多くの評論家の方々が語り尽くしているようなことかもしれないけど、改めてなんとなくだけど考えたりして気付いたりするのって、不謹慎なことかも知れないけど、面白かったりする。で、なんでそんな境遇に置かれた人たちが創作活動において秀でた活躍を示せるのかを考えたりすると、たぶんカネだと思うんだよね。いわゆるアーティストは、売れないと有名になれない。有名になれないと売れない。だから、売れないときから応援してくれる人たちがいないと有名になれないんだと思うわけ。応援というと素敵な感じだけど、悪く言えば、「うまそうな肉にたかる蝿ども」とも言えるんじゃないかなとも思ったりする。「うまそうな肉」はそのまま放置してたら腐るだけだけど、その肉を蝿どもが食べることで、自らの栄養として、安心して子孫を残せる。「うまそうな肉」は、本当に「うまい肉」でなくてもいい。「うまそう」に見えれば、それをどう処理するかは蝿ども次第だから。蝿どもは決して痩せたりしない。一方で、そんな蝿どもを追い払い、料理人として「うまそうな肉」を調理し、その素材の良さを引き出し、たくさんの人に味わってもらおうっていう人種もいるわけで。一流の料理人に調理される「うまそうな肉」は本当にラッキーだ。ぱっと見そんなにうまそうに見えなくても、その料理人の手にかかれば「食べてみたい!」と思わずにはいられない。魅力があふれ出し、スター街道まっしぐら。そんな料理人も始めは何の実績も無く貧乏だったりするからお互いにラッキー。純粋に目の前に置かれた「うまそうな肉」の素材を見極め、(もしかしたら、それほどでもないのかもという疑いも多少含みつつも)、どうしたら「いい肉」として世間に提供できるか、その一心で腕を振るう。純粋な気持ちと気持ちが融合すれば、本当のいいものが生まれるのだろうし、結果として、長く愛されたりするものが生まれるんじゃないだろうか。純粋な気持ちと気持ちのつながりが、これまで連綿として受け継がれてきたものが、本当のいいものと言えるのではないだろうか。そんな単純なことではないのかも知れないけど、少なくとも私はそうであってほしいと願うし、そうだと信じる。このろくでもない時代、私たちみんなが「うまそうな肉」なのである。スマホやテレビからひっきりなしに情報が流れ込み過ぎて善悪の判断もできず考える余地も与えられず、ただ単に空気のように吸い込まされてる言いようのない嫌悪感。一見、絶望しかなさそうな現代社会だけど、むしろ逆にチャンスに満ちあふれているとも言えなくもない。「うまそうな肉」であることを自覚し、やり方や方法はどうであれ、今はまさに自分の生き様を確かめられるときだと思う。あなた自身の胸に問いかけて欲しい。一生会社の奴隷として働くか、カネの亡者として心を無くして生きるか、金は無くともやりたいことを見つけて生きていくか、やりたいことがなく何となくそのまま年老いていくか、さまざまな生き様が用意されている。まずは「こうじゃなくてはならない」という固定観念を取っ払らうことから始めたらいいなじゃいでしょうか。こんな時代だからこそ精神的にも金銭的にも自由になれる生き様を、本当に毎日瞬間瞬間幸せを感じられるような生き様を模索したい。自分自身の純粋な気持ちって、日常生活を普段通り送ってると案外分からないものだが、「今、この瞬間に一番やりたいこと、やっているといつの間に時間が過ぎてること」「なんか面白そう」「誰かの役に立ちたい」、とかをヒントにするとちょっとは見えたりするのかも知れない。「じゃあ、私はスマホ見るのが好きで、いつの間にか時間が過ぎてるから、スマホを使った何かをしよう」とか。ユーチューバーという万人が思いつく選択肢はあるのかも知れませんが、やるやらないは自分次第。とにかく何かをやってみて、少しでも続けることで、「蝿ども」とか「料理人」とかに出会える可能性も生まれるわけで。何か思いついたら、気軽に発信してみても面白いんじゃないかな。ちょっとした思いつきと思いつき、ちょっとした行動が社会をより良くする。そんなシンプルなつながりが何となく素晴らしいと思ったりもして。みんなが幸せに生きられる日々を信じつつ。