前回の
にて提示した映画『メッセージ』より、セリフをいくつか紹介する。
映画『メッセージ』でのセリフ
主人公のルイーズは、言語学者。地球外生命体との対話を進めていく、というストーリー。
サンスクリット語で、
「戦争」を指す単語と語源を聞いて。
「ギャヴィスティ」語源は「討論」
「牛を要求」
言語は文明の基盤だ
人々を結び 対立時には最初の武器になる
「外国語を学ぶと考え方が変わる」というサピア・ウォーフの仮説の紹介
思考は話す言語で形成される
物の見方にも影響してくる
対戦型のゲームを教えたら、
会話の基盤は「対立・勝利・敗北」
ノンゼロサムゲーム という概念の紹介
「武器」は「言語」よ
言葉を教えてくれたの
彼らと同じ感覚で「時」を理解できるようになる
彼らに取って時は流れるものじゃない
対話するということ
映画の中で、「武器」という言葉が出てきたときに、
メンバーの多くが過剰に反応する。
それがいいとか悪いとかの話ではなく、
それぞれの立場、役割、環境、文化、思考、つまり前提が違うのだ。
ルイーズは、地球外生命体との対話を進めていくときに、彼らの前提がどこにあるのかを慎重に理解していく。
同じ言葉でも、前提が違えば、その言葉から感じるエネルギーが変わるということだ。
同じ文章を読んでいても、
同じ映像を見ていても、
同じ体験をしたとしても、
その理解やそのとき受けるエネルギーは、
それぞれの前提によって全く異なるということ。
今のご時世のことについても、
同じ情報を見ても、受け取り方は、人それぞれだ。
これが真で、これが偽
これが悪で、これが正
と、判断することも出てくるだろう。
その判断は、人それぞれだ。
だけど、
自分が「悪」と判断していることの事象に対しては、
必ず「正」と判断している人が発生しているのだ。
いろんなことにジャッジが入るとき、
そのときの前提はどのようになっているのだろうか。
対話する相手の前提を完全に理解することは難しい。
だけど、少なくとも「相手の前提が自分と全く同じではない」、
という前提がないと
対話は成り立たないだろうと思う。
時間の前提
前回少し紹介した、映画『メッセージ』で扱っている時間について。
「同時的認識様式」
(事象を同時に経験し、その根源に潜む目的を知覚する認識様式)
私達の住んでいる世界の標準的な認識
「逐次的認識様式」
(事象をある順序で経験し、因果関係として知覚する認識様式)
という一本の線上に過去から未来へと時間が流れているというもの。
座標軸の左から右へ進んでいくように、
過去から未来に向かって一直線上に時間が流れている、というのが私たちの「前提」。
ここを疑い、もしかしたら違う前提があるのかも、と思えた段階で、
違う世界の扉が現れる。
当たり前だと思っていることに対して、
当たり前ではないかもしれない、なんて発想は出てこない。
だけど、そこを疑い、Aだけではなく、Bも、となると、
B ,C ,D ,...と他の世界が広がっていく可能性を見出すことができるのだ。
ノンゼロサムゲーム
ストーリーの中で、軽く触れられていたノンゼロサムゲームという概念。
数学のゲーム理論で出てくる用語。
非ゼロ和ともいう。
サムは、sum で、エクセルの関数でもよく用いられる和のこと。
対比は、合計が0になる、ゼロサムゲーム。
例えば、ゲームで
1得点に対して、 相手側は1失点になる。
+1に対して、−1が生まれる。この和が0
誰かの利益が、誰かの損失になっている。
という考え方のこと。
世の中は、結構このゼロサムの考え方がベースにあるんじゃないかと思う。
刷り込みというべきかもしれないが。
たとえば、
運を使いすぎると悪いことが起きる。とか、
ギブ andテイクの考え方もこれに近い気はする。
与えると出ていってしまう。なくなっていってしまう。渡す方が損をする。とか。
映画の中でも、
ある情報を流すことが、自国に取って、損益になるのではないか。
という発言が出てくる。
ゼロサム ベースの考え方だからだ。
それに対して、
ノンゼロサムゲームは、一方の利益が必ずしも片方の損益にはなることはない、という考え方。
例えば、
ウチで水を沢山使ったからといって、誰かが水に困る状況が出るとは限らないし、
一人の人がお金をいっぱい稼いだからといって、それに連動して、誰かの損失が大きくなっているとは限らない、ということ。
ピラミッド社会での考え方は、ゼロサムベースがほとんどだ。
勝者、敗者を作りあげ、そこに対して価値を見出させる、という構造は至る所にあるだろう。
それに対しての是非を言ってるのではない。
だけど、そこに対して疑問を持つことがなければ、
損をした、得をした、
がずっと付き纏うことになる。
でも、そうではない概念、ノンゼロサム の考え方が入ること、
自分のパイと他人のパイは連動しない世界があるんだ、ということが
少しずつ目の前に現れる。
前提の違いを認識するには
映画の中でのセリフ。
思考は話す言語で形成される
言葉を教えてくれたの
彼らと同じ感覚で「時」を理解できるようになる
彼らに取って時は流れるものじゃない
昔、上司が、
「思考力は、語彙力に比例する」と話をしていたことがある。
現時点での思考は、言語を用いてすることがベースになっているので、
言語力が少ないと思考が乏しくなる、という考え方もわからないではない。
ただ、言語が先なのか、体感が先なのか。
例えば、理解できる語彙が少ない
赤ちゃんやこどもの思考力がないのか、というとそこはわからない。
何を持って思考というのか、にもよるのかもしれない。
言語化できない体感が先にくる場合もある。
前提が違うことが、言語を用いないと理解できない、ということはないと
経験上知っている。
ただ、
前提の違いを示したり、共通認識をするために、言語はいいアイテムになることは確かだ。
個人的な考えは、
言語化されるときには、もうすでに「わかっている」状態が「ある」と思っている。その「ある」は、どこかの時間に「ある」と考える。
理解できない前提は、目の前に現れることはない。
目の前に現象化されるということは、それが分かる、という結果がすでにあるからなのだと私は思っている。
では、前提の違いに気づき、変えるにはどうしたらいいのか。
私の今の答えは、
人に会うこと。
そして、自分の前提を意識的に認識していくこと。
自分の当たり前に意識してこなかったこと、
自分の前提が何であるのかを意識して探っていく。
自分一人では探すことは難しい。当たり前のことは意識していないからだ。
だけど、
人に会ったり、人と接することで、あるモノがガイドになってくれるのだ。
それは、「感情」。
自分の感情が動くとき、そこには、自分の前提が隠れている。
特に、「怒り」「嫉妬」「悲しみ」はわかりやすいガイドになってくれる。
前提があるから、怒りの感情が湧いてくることが多いのだ。
その感情が出てきたときに、その感情を味わった後、
なぜこの感情が出てきてるんだろう、と探っていくと、
自分の前提が顔を出してくれるかもしれない。
そうすると、もっと、沢山の前提に出会う扉が開くことになる。
次回紹介するのは、その一つだ。