親友・田中滋
中学・高校の親友、田中滋は50歳の誕生日の前日亡くなった。
肝硬変だった。
共通の友人、六甲高校の同期・加門正之から突然の電話。
「滋が亡くなったんや!俺、北海道に出張で来てて、通夜も葬式も間に合わへん!宮崎ひろ志と二人で、通夜と葬式手伝いに行ってくれへんか?」
僕はこれも同期の宮崎に連絡し、兵庫県宝塚市逆瀬川の斎場に向かった。
田中滋と仲良くなったのはいつ頃の事やろう。
「バスケットボール部」に所属していた僕が「帰宅部」だった田中滋と仲良くなったきっかけは「六甲中学校の理科校舎」の前で「テニポン」と僕らが呼んでいた「軟式テニスボール」を使った「狭い空間で出来る球技」にハマった時かも知れない。
高校時代の田中滋は体育館の横の駐車場に「ラジコン」のクルマを持って来て、一人で遊んでいた。
大学に入ってすぐ、僕は田中滋、宮崎ひろ志と一緒に初めて北海道に渡った。
大阪から青森行きの「特急白鳥」に乗り、23:50に青森駅に着く。
石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の世界だ。
「厳寒」で雪がチラついていた。
まだ、大学に入った当時1978年には「青函トンネル」はもちろん開通しておらず、0:10青森港発の「青函連絡船」に乗り込み、「2等船室」で寒さに震えながら、函館港を目指した。
津軽海峡の流れはとっても速かった。
遠くに北海道が見えてきた。
ワクワクが抑えきれない。
函館港に着いたのが、4:00。
函館駅には「特急北海」(函館本線経由札幌行き)と「特急北斗」(室蘭本線経由札幌行き)が僕たちを待ち構えていた。
僕たちは寒々とした早朝、初めての北海道の空の下、暖房が心地良く効いた「特急北海」に乗り込んだ。
ディーゼル特急は静かな低いエンジン音を響かせながら、動き出し、車窓からは広々とした北海道の大地が見て取れた。
まるで「アメリカの西部劇」に出て来る風景の様だ。
今夜泊まるのは、石北本線・北見駅から支線に乗り換えて、やっと到着する「チミケップ湖畔」である。
何故、この場所になったかと言うと、この時、僕は「大学のバスケットボール愛好会」の女子と付き合っていた。
彼女が故郷北海道の「チミケップ湖」で「夏合宿」に参加していると聞いた。
大学に入って初めてできた彼女に無性に会いたくなり、宮崎と田中を引き摺る様に連れて北見へと向かったのだった。
僕は「この行動」と「付き合っている事を周りの男子に嬉しくて言いふらした事」で彼女にフラれる。
全く、「女心」が分かっていなかった。
その後、釧路湿原をレンタサイクルで男3人で周った。
田中がすごくバテていたのを憶えている。
白糠町の「ユースホステル」に泊まったりして、帰阪した。
田中滋は関西大学に通っており、僕の実家も「関大前駅」の近くにあったので、彼はよく僕の家にも遊びに来た。
彼は、冬の寒い時期、兵庫県の北の方、豊岡市辺りへ行って、凍った道で車をドリフトさせるのが好きだった。
一度、ドリフトに失敗して、車ごと道路から田んぼに落ちて、親の車を廃車にした事がある。
阪急今津線の逆瀬川駅近くに彼の家はあった。
僕もよく遊びに行ったものだ。
近くに住む、同じ六甲高校同期の加門正之の家で、加門・田中・僕・加門の幼なじみの女の子の四人で深夜まで麻雀していたら、加門の親父が部屋に怒鳴り込んで来た。
「若い女性をこんな深夜まで麻雀に付き合わせるとはどういう事や‼️」
親父さんのおっしゃる事もごもっともだった。
田中滋は大学卒業後、お父さんがやっている「逆瀬川駅前」のメガネと時計の店「宝美堂」を継ぐ為に、メガネの専門学校に通い始めた。
卒業後、お父さんと二人でお店に出ていた。
僕は就職して出た給料で「メガネ」も「時計」も「宝美堂」で買った。
すごく割引してくれた。
その後、田中は結婚して、二人の子供が生まれた。
僕は「読書」が好きな田中に教えてもらって、「摩天楼の身代金」と「超音速漂流」を読んだが、どちらもめちゃくちゃ面白かった。
素晴らしい「エンタテインメント小説」。
彼の「面白い本をチョイスする力」は凄いと思った。
田中が読み続けていたのは、高千穂遙の「ダーティーペア」シリーズだ。
その話をしたのも、鮮明に憶えている。
やがて、逆瀬川駅前に再開発で「駅ビル」が建つ事になり、「宝美堂」も「駅ビル」の中に入る事が決まった。
個人商店としてやっている時、定休日は「土日祝日」だったが、「駅ビル」の「儲け時」は「休日」。
それゆえ、「宝美堂」の「定休日」も「駅ビル」に合わせて、「毎週水曜日」になったのだ。
それでも、「テレビ番組の制作」をやっていた僕も休みは不定期。
水曜日が休みになったら、時々は田中と逆瀬川駅近辺の居酒屋で飲んだし、お父さんが御存命の時は「土日祝日」でも仕事をお父さんが引き受けてくれて、田中は夕方から僕と何時間も居酒屋で飲み明かした。
しゃべってもしゃべってもしゃべり足らない状態。
彼は「定休日」が「水曜日」になって、友だちとほとんど会えないと嘆いていた。
時が経ち、お父さんが亡くなられた。
一家の生活は田中滋が支える事に。
その頃、「メガネ」や「時計」は「個人商店」で買うものでは無くなりつつあり、お客の多くは「ヨドバシカメラ」等の「家電量販店」を利用する様になっていた。
いつも誰に対しても優しかった田中滋。
それゆえ、誰にも自分自身の積りに積った「悩み」を打ち明けられなかったのかも知れない。
お通夜の時、奥さんは焦燥していた。
仕事が終わって、帰宅すると、田中は毎日、焼酎を煽る様に飲み続けたという。ぐでんぐでんになるまで。
そしてそして、具合がすごく悪くなって、病院に緊急で担ぎ込まれた時、既に肝硬変になっていて、手の施しようが無かった。
棺に入った田中滋の顔は優しく穏やかに微笑んでいる様だった。
ただ、顔色は肝硬変のせいか、茶色くなり、白い産毛が目立って見えた。
僕はデジカメで彼の死顔の写真を一枚撮った。
なんか、田中が遠くに行ってしまいそうで、思わずシャッターを自然と押していた。
田中を誰にも取られたくないという「親友」の勝手な思いだったのかも。
お通夜の日の記憶はある。
奥さんが「今日は田中滋の50歳の誕生日です」と言われた事が忘れられないから。
僕は今64歳。あれから14年も経ったなんて。
誰も悪くないのに、こんな悲しい事が家族の中で起こってしまう。
でも、ひとつだけ言える事があるとしたら、僕の心の中には田中滋は生きている。
「肉体的」死んだけど、「記憶」はたくさんの友だちの中で生き続けているのだ。