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脚本家・黒土三男さん

僕が「東京のドラマ班」に異動して、初めてプロデューサーをやった連続ドラマが「八月のラブソング」だ。

ドラマ「八月のラブソング」

「制作協力」はドラマ制作会社の老舗「共同テレビ」。

中山和記プロデューサー

一緒にプロデュースするのが、中山和記プロデューサー。「ニューヨーク恋物語」「29歳のクリスマス」「さよなら李香蘭」「金(きむ)の戦争」などを作った名プロデューサーである。

なんという「運命の巡り合わせ」かと、当時僕は心の中で狂喜乱舞していた。

星田良子監督

監督は星田良子さんと村上正典さん。

葉月里緒奈さん
若い頃の葉月里緒奈さん
加藤雅也さん
一色紗英さん
緒形拳さん

そして、主演はその頃、売れに売れていた葉月里緒奈さん。共演は、加藤雅也さん、一色紗英さん、そして緒形拳さんである。

主題歌はホイットニー・ヒューストンの「all at once」。

ホイットニー・ヒューストンの使用可能な曲を二曲、中山和記さんから提示され、僕がこの曲を選んだ。

この曲以外には考えられなかった。

初めて、中山和記さんとお会いした時、「脚本家を誰にするか❓」と尋ねられた。

「黒土三男さん」「梶本恵美さん」、二人の名前が挙がった。

僕は即座に「黒土三男さん」とやりたいと、中山さんに答えた。

映画「幸福の黄色いハンカチ」は山田洋次監督の名作だが、実は「幸福の黄色いハンカチ」のテレビドラマ版もあった。

そのドラマ版の脚本を書いたのが、「黒土三男さん」と「山田洋次さん」。

木下惠介監督
山田洋次監督

「黒土三男さん」は「木下惠介監督」と「山田洋次監督」を「師」と仰ぐ事になる。

ドラマ版の主演は菅原文太だった。

主題歌はアメリカ民謡「黄色いリボン」。

ドラマ版「幸福の黄色いハンカチ」に痛く感動していた僕は「黒土三男さん」と一緒にドラマを作りたいという衝動に駆られたのである。

「脚本作り」が始まった。ウチの局の会議室か「共同テレビ」の会議室で行なわれた。

しかし、先輩プロデューサーの梅溪通彦プロデューサー(故人)と僕が「黒土三男さん」に会えるのは、その場だけ。

あとは「連絡を取る事」も許されない。

つまり、「共同テレビ」には「ドラマ作り」に関して、それだけの「自負」と「誇り」があり、「局プロデューサー」はほとんど関わらせないのだった。

ドラマ「古畑任三郎」

あの名作ドラマ「古畑任三郎」も「共同テレビ」の制作。

だから、「フジテレビ」のスタッフは「企画」という名前でしか入っておらず、全ては「共同テレビ」が仕切っているのだ。

さらに、当時のウチの「東京制作局長」が「中山和記プロデューサー」に直接電話して、「梅渓と僕の意見は聞かなくていい」(「共同テレビ」のプロのドラマ作りをしてくれという事か❓)と告げていた事が後で分かった。

その頃の「東京制作部」は「魑魅魍魎」が住む世界だったのだ。

初めてプロデューサーをする僕は、なんとか黒土三男さんとコンタクトを取りたかった。

それで思いついたのが、黒土さんが執筆する時に「定宿」にしているのが、「都ホテル東京」。ここに何か差し入れの品を送れば、僕に連絡をくれるかも知れないと。

すぐに実行した。

シングルモルトスコッチウィスキー
「グレンモーレンジー」

僕の大好きなシングルモルトスコッチウィスキー「グレン・モーレンジー」を3本、箱詰めして、「都ホテル東京」の黒土三男さん宛に、「僕の携帯電話の番号」を入れて贈ったのだ。

すぐに黒土さんは電話をくれた。

「都ホテル東京」の喫茶ルームでお会いして意気投合。

それからは黒土三男さんの浦安の御自宅にしばしば伺う事になる。

黒土さんは「パソコン」や「ワープロ」では無く、「ペラ(200字詰めの原稿用紙)」に鉛筆で「シナリオ」を書いていた。

ペラ(200字詰め原稿用紙)
ペラ

山田太一さんもそうだが、ある程度より年齢が上の脚本家はこの「ペラ」で「シナリオ」を書く。

ウチの局にも「ペラ」が備え付けられており、僕も「朝の連続ドラマ」の「企画書」を「ペラ」150枚で書いた事がある。

黒土三男さんは「ペラ」が1枚書き上がると、僕に読む様に言った。

黒土さんの御自宅の2階の書斎に二人並んで、その作業を続ける。

「シナリオ」が出来上がると、「共同テレビ」の「宮沢あけみAP」が「生原稿」を取りに来て、「印刷所」に入れるのである。

当然、僕が黒土三男さんと接触している事は、中山和記さん含めて、「共同テレビ」には内緒だから、僕も黒土さんも「共同テレビ」の「AP」には知らぬ存ぜぬ。

「シナリオ」が出来上がったら、黒土三男さんの愛車「BMW」に乗って、「黒土さん行きつけの鮨屋」に行って、御馳走になる。

浦安
浦安の鮨屋

浦安は「TDL」で有名だが、埋め立てされる前、元々は「漁師町」で「海鮮」が美味しいのだ。

何度も黒土さんと僕は「美酒」と「新鮮で頬が落ちるくらい美味しい鮨」に毎回酔いしれた。

もちろん、黒土さんが「お酒」を飲む時、二人はタクシーで出かけた。

僕たちは「食後」も黒土さんの御自宅に戻り、「ドラマ」についての話を何時間も重ねた。

黒土三男さんは「木下惠介プロダクション」に入社し、大場久美子版「コメットさん」でテレビ脚本デビュー。

長渕剛主演のドラマ「とんぼ」、「うさぎの休日」で、あの「向田邦子賞」も受賞している。

いろんな「ドラマ」や「映画」の話で盛り上がる。

僕はついつい、言ってしまった。

「黒土さんって、『女』書けないですよねー」

当然の事ながら、黒土三男さんに激怒された。

「あなたより私の方が『女性経験』は豊富なんだから。失敬な」

でも、いくら酔っていたと言っても、僕は嘘が付けない。

「女性経験の数」と「女性をシナリオで描けるか❓」は別物である。

連続ドラマ「八月のラブソング」の撮影が半ばまで来たある日、僕は星田良子監督の「編集」に付き合って、「編集室」にいた。

そこに突然、主演の葉月里緒奈さんから、星田さんの携帯に電話が
かかって来たのである。

「この脚本では演じられません。脚本家を替えてくれない限り、明日以降の撮影には行きません」

「帰国子女」である葉月里緒奈さんらしいはっきりした意見である。

中山和記さん、梅渓通彦さん、僕の3人は「赤坂プリンスホテル」のティールームに急遽集まった。

こんな事は「ドラマ作り」ではよくある事。

黒土三男さんに降りてもらう事にした。それしか方法が無かった。

脚本家・田渕久美子さん

以降を書くのは、「脚本家・田渕久美子さん」。後に大河ドラマ「江」「篤姫」を書く事になる女性脚本家だ。

彼女の登板によって、脚本のテイストも変わり、「女性」かきちんと描けている脚本になった。

僕は「黒土三男さん」の御自宅に、深夜、「京王堀之内駅」そばにある「多摩スタジオ」からタクシーを飛ばしていた。

浦安の黒土三男さんの御自宅までは1時間強、料金にして、15,000円位だったか。

事前に綴った手紙を黒土家のポストに放り込んだ。

しかし、黒土三男さんからの連絡は全く無くなった。

多分、制作会社のプロデューサーである中山和記さんは黒土三男さんにこう説明したのだろう。

「私は反対したんですが、局プロデューサーがどうしても黒土三男さんを降ろして欲しいと言ってましてね・・・」

僕の想像でしか無いが。

昨年3月25日、黒土三男さんは76歳で亡くなられた。

その時、いろんな事が僕の頭の中をぐるぐると回っていた。

僕にとって、「脚本家・黒土三男さん」はどこか「お兄ちゃん」みたいな存在だった。

ある時、御自宅で黒土三男さんは一冊の印刷された台本を僕に見せてくれた。

藤沢周平原作、黒土三男脚本の「蝉しぐれ」。

これを映像化するのが自分の夢だと。

今は勝手に「印刷」した台本だけど。

その夢は叶った。

ちゃんと、「蝉しぐれ」は黒土三男脚本・監督で映画化、黒土三男脚本を使ってドラマ化されたのだ。

あの脚本家・黒土三男さんとの濃密な時間を僕は忘れない。

ちなみにドラマのタイトル「八月のラブソング」は黒土三男さんと僕が偶然タクシーに乗っている時、僕の頭の中に降りて来た。

「八月のラブソング」って、どうですかねぇ❓黒土さん❓」

「それ、いいんじゃない‼️」

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