ADブギ
息子が帰省していて、昨夜、息子が入っている「U-NEXT」で遊川和彦さんが脚本を書いた「ADブギ」第一話、第二話を久しぶりに観た。
「昭和生まれ」の僕にとって、めちゃくちゃ面白いドラマだった。
1991年放送。
僕は大阪で「朝の連続ドラマ」の「AP」をやっていた。
その8ヶ月間に及ぶ「撮影」は過酷を極めた。予感は極めて少ない。
身も心もボロボロになりながら、早朝から深夜まで、「ドラマ漬け」の日々だった。
そんな時、ビデオに録って、毎週観ていたのが「遊川和彦ドラマ」だったのである。
特に「予備校ブギ」と「ADブギ」には「元気」と「生きるエネルギー」をもらった。
脚本家・遊川和彦さんと一緒に仕事をして、「TBS局制作」の様な恵まれた環境で、一度はドラマを作りたいと強く思っていた。
「ADブギ」の中でも出て来る「台詞」。
浜田雅功演じる「チーフAD」が、加勢大周演じる「新米AD」.に言う。
「下請けの制作会社のAD、まずは1月手取り10万円だからな!」
「朝の連続ドラマ」の「下請けの制作会社」や「フリー」の「AD」や「制作助手」の「給料」はそんなものだった。
それでも、彼らには「夢」があったのかも知れない。
「ADブギ」というドラマはそれをしっかりと描いている。
遊川和彦さんが「映画監督」を目指して、広島から上京して、「下請けの制作会社のAD」としての経験が存分に活かされている。
「パパはニュースキャスター」に「AD」として付いていた時、遊川和彦さんは「こんな脚本だったら、俺にも書ける」と思い、実際に書いて、「パパはニュースキャスターSP」で脚本家デビューを果たす事になる。
今回、「ADブギ」を見直してみて、思った事。
あの時代には「夢」と「挫折」があったという事。
それを人々は「お互いぶつかり合う会話」の中で、解決していったという事。
今、僕は宮藤官九郎脚本の「新宿野戦病院」や生方美久脚本の「海のはじまり」を楽しみに観ている。
何故、あれほど憧れた「遊川和彦ドラマ」を観ても「感動」しなくなったのか❓
それは「遊川和彦さん」が変わったのでは無くて、「日本社会」が「夢を見る事が出来ない社会」に急速に変わって来たからだと強く感じた。
脚本家・遊川和彦さんが「今の世の中」を「ドラマに取り入れる事」が出来ていない事も一因だと思うが。
「ドラマの撮影現場」は超過酷だ。
その底辺にいる「AD」ほどしんどい仕事はあまり無いだろう。
僕らが「テレビ」という世界に入った頃、「配属されたかった部署」は「制作」と「報道」。やはり、みんな「現場」がやりたかった。
今はどうだろう❓
「編成」や「コンテンツビジネス」を希望する新入社員が多いと聞く。
「インターネット」の発達で、「周りの様々な情報」を簡単に手に入れる事が出来る様になった。
「スマホ」という、昔では想像も付かなかった便利なものが誰でも手に入る。
一日中、みんな「スマホ」と向き合っているのが現実だ。
つまり、多くの若者は「夢」すら持てなくなった。
「ADブギ」の時代に「テレビ」を、特に「ドラマ」をやれて良かった。
のちに東京に異動して、僕は憧れの脚本家・遊川和彦さんと仕事を共にする事になる。
「スマホ」に依存する事無く、あの遊川和彦さんが描き続けた「夢を持てる社会」にもう一度、日本は戻れないものだろうか❓
「推し」とは「アイドル」に自分の「夢」を委ねている事なのかも。