社風
僕が入社した1983年、「制作部」の管理部署で事務をしていたTさん(女性)。
その後、妊娠して出産。いつのまにかシングルマザーになっていた。
大阪府の南部、土建業を営む一家で育ったTさんは稀に見る豪快な人だった。
自分の思った事ははっきり言わないと気がすまない。生半可な男より男っぽい「竹を割った様な性格の女性」。
彼女には大阪の「制作部」時代、大変お世話になった。
「高校生クイズ 近畿大会」(1992〜1994年)のディレクターを僕がやった時、同じ管理部署のMさん(男性)と「高校生のケア」を担当してくれた。
真夏にやる「高校生クイズ 近畿大会」。「熱中症」に高校生がなる危険性も多い。何せ、当時の「近畿大会」だけで、一万人以上の高校生が集まっていたからだ。
「熱中症」ほか、倒れたり気分が悪くなったりした高校生を待機している医師や看護師に診てもらったり、場合によっては救急車を呼んだり。TさんとMさんは1万人の高校生の熱気でムンムンした会場を走り回っていた。
「高校生クイズ 近畿大会」の収録は1日で決勝戦までやる。
「勝者の高校生」の弁当の手配、水やお茶の供給、全てTさんやMさんが中心になってやってくれた。お二人は自分達の昼食を食べる時間も無かったと思う。
そんなTさんに
「昨日の放送、面白かったよ!」と褒められた時は本当に嬉しかったし、感謝の念でいっぱいになった。
そのTさんが「宣伝部」に異動になったのである。
僕がプロデュースした連続ドラマが彼女の「ドラマ宣伝」デビュー。北海道・浦河町のロケだった。
東京・大阪から「記者誘導」(「宣伝部」が交通費や宿泊費を払って、記者の皆さんに撮影現場に見てもらい、取材してもらう事)でたくさんの記者がロケに来ていた。
プロデューサーの僕が「宣伝部」のTさんと連絡を取り合い、ロケの進行具合をみて、記者を撮影現場に誘導する。そこで、俳優さんの写真撮影。
1日のロケが終わり、ホテルに俳優さん達が戻って来る。
ホテルのロビーにはイスが並べられ、記者さんの「囲み取材」が行われる。
主演は佐藤浩市さん。
佐藤さんがホテルに到着すると、少し休憩時間を取って、ロビーに降りて来てもらった。「囲み取材」の司会はTさん。
記者が質問し、佐藤さんがそれに答える一問一答形式。
この時の「囲み取材」ではあまり質問が出ず、取材時間が余ってしまった。
そしたら突然Tさんが佐藤浩市さんに向かって言った。
「あんたも何か喋る事あるやろ!ちゃっちゃと喋り!」
僕は肝を冷やして佐藤さんの方を見た。佐藤さんは苦笑いしながらも、記者に向かって冷静に話をしてくれた。「大人の対応」だった。
Tさんの伝説。
Tさんは「近鉄百貨店外商部」の「上得意様」。ある時、「外商部」に電話してこう言った。
「赤いベンツ一台、持って来てくれるか!」
「外商部」も困った事だろう。いくら「外商部」でも車は売っていない。かと言って、「上得意様」だから無碍には出来ないし。
多分、ベンツを売っているのは「近鉄関連の外車販売会社」。「外商部」はどうやって対処したのか?結末は闇の中。
そのTさん、60歳で定年になった。ウチの会社は「シニアスタッフ」として、65歳まで働けるのだが、Tさんは「私、年下の上司に命令されるのは嫌や」と潔く退職された。
Tさんも「制作部のプロデューサーやディレクター」同様、昭和のテレビの「野武士」だったのかも知れない。
何か僕たちが「無茶なお願い」をしても、「しゃないなぁー」と呆れて笑いながらも、何でも聞き入れてやってくれた「根はホンマに優しい」Tさん。そこには「無償の愛」があった。
Tさんの様な「ある種尖った人柄」の社員も優しく包み込んでくれる「どこか長閑な社風」。
最近、その「社風」がどんどん無くなっていっている様な気がするのは僕だけだろうか?とても悲しい事である。
「11PM」のMC藤本義一さんは言った。
「よみうりテレビは商店街である」。他の在阪局は「企業」。
「商店街」は他の店の人の「足を引っ張り合い」する事無く、それぞれの個性を尊重する。そして、「個人商店」が集まって、みんなの力を結集して闘う。
「企業」は「利益」を追求する為に「プロデューサー・ディレクター同士」が足を引っ張り合うと。
そんな「商店街」の一員になれた事に僕は今でも誇りを持っている。