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階堂昌和さん

「鶴橋康夫監督が連続ドラマ『永遠の仔』と『リミット』を何本ずつ撮るか❓そろそろ決めて下さい‼️」

ドラマ「永遠の仔」
鶴橋康夫監督
ドラマ「永遠の仔」
ドラマ「リミット」



僕は「永遠の仔」のスタッフ20人くらい集まった「打ち合わせ」兼「飲み会」で、そう切り出した。

俳優・椎名桔平さん



俳優・椎名桔平さんら出演者が原作の魅力に惹かれ、鶴橋康夫監督が撮るという事で出演を決めたドラマ「永遠の仔」。

脚本家・野沢尚さん



鶴橋康夫監督と長年の付き合いで、鶴橋監督が半分以上撮るならと脚本を引き受けた売れっ子脚本家・野沢尚さんが書くドラマ「リミット」。

鶴橋康夫監督は板挟み状態だった。自ら招いた事とも言えるが。

いずれにせよ、あの頃、みんな鶴橋組に参加したかったのである。

この「何本撮るか❓問題」は揉めに揉めた。

両方のドラマのチーフ・プロデューサーをやっていた僕と同期の池田典正は鶴橋康夫監督に決めてくれて言い、鶴橋監督はニタニタ笑いながら、東京制作部長の階堂昌和さんに決めてくれと譲り合って決まらなかった。

階堂さんは再び池田CPへ振り、20人近くスタッフがいる中、このやり取りが延々と続いた。僕は笑うしか仕方が無かった。

そして、遂には、「永遠の仔」のプロデューサーである僕に決めてくれという話になりかけたので、それは断固お断りした。

だって、「両方のドラマに関わっているのは3人だけ」であり、僕は「永遠の仔」だけだから、責任の取りようが無かったから。

結果は後日、「リミット」のプロデューサーである小橋智子さんから僕に電話が入り、僕は小橋智子の事を思って、泣く泣く鶴橋監督を「永遠の仔」から「リミット」へと譲ったのであった。

結局、僕が決断した事になる。

そもそも、階堂さんと初めて会ったのは入社した1983年。

入社当時の社屋



大阪本社の「制作部」だった。

「木曜日ゴールデンドラマ」に「大阪班」があった。

東京だけでなく、ウチのテレビ局の「地元・大阪」でもドラマ作りをしたいという趣旨で設けられたのだ。

ドラマデザイン社代表取締役
山本和夫さん



そこには、階堂昌和プロデューサー、上野隆プロデューサー(先日74歳で逝去)、そして僕の5年先輩・定期入社再開一期生の山本和夫さん(現・ドラマデザイン社代表取締役)の3人がいた。

小さな「大阪ドラマ班」。

その頃、「11PM」をやっていた僕は「ドラマ制作」を希望していて、階堂さんとも何回か飲んだ。

南森町で「お好み焼き」をご馳走になった思い出もある。
もちろん、ビールをグビグビのみながら。

僕が「11PM」から「朝の連続ドラマ」に行ったのと前後して、入れ違うように階堂さんは「東京制作部」に戻った。

1994年夏、僕は「東京制作部」に異動。

階堂さんと同じ、「ドラマ班」の一員となる。

生ビール



階堂さんはビールが大好きだった。

麹町・日本テレビの隣にウチの東京支社があり、日本テレビの道向かいに通称「金魚鉢」と名付けられた「喫茶店」があった。

道路側が全面ガラス張りだったから、その名が付いたのだろう。

僕らはランチでも行ったが、ここは夕方からビールが飲める「喫茶店」でもあった。

階堂さんは午後5時過ぎると、僕を誘った。

「金魚鉢に行って、ビールでうがいしない❓」

とっても嬉しそうに満面の笑みを浮かべて、そう言った。

僕はまだ仕事が残っている事が多く、残業していると、「金魚鉢」でビールを飲んで良い気分で酔っている階堂さんから電話が入った。

「早くおいでよ!仕事なんて、明日でも出来るだろ!」

階堂さんは僕を三軒茶屋の「昭和の匂いがムンムン漂う古いが良い雰囲気の居酒屋」にも連れて行ってくれた。

もう一回行けと言われたら、かなり迷うような場所に、その店はあった。

「木曜ゴールデンドラマ」



「木曜ゴールデンドラマ」が出来る時、階堂さんは「フリーの助監督」からウチの局員になった。

助監督時代、こうした居酒屋に通っていたのかも知れない。

階堂さんは鶴橋康夫監督が好きだった。

だから、愛媛県大洲市で行われていた「永遠の仔」のロケにも陣中見舞いを持って駆けつけた。

そして、鶴橋監督にいろいろと相談している様に見えた。

「東京制作部長」の階堂さんには悩み事がたくさんあったみたい。

今考えると、「良い時代」だった。

今なら、「経費削減」で、「制作部長」が地方ロケに来る事なんて事は考えられない。

そして、階堂さんがチーフ・プロデューサー、僕がプロデューサーで、ドラマを作る事になった。

3つほど企画が挙がったが、階堂さんの企画「別れさせ屋」をドラマ化する事に決めた。

ドラマ「別れさせ屋」



「痴情に縺れた男女を別れさせる稼業」をスタイリッシュに描いたドラマになるはずだった。

ドラマ「心療内科医涼子」



脚本は階堂さんのたっての希望で、「心療内科医涼子」を書いた森下直さんにお願いする事にした。

二人で、森下さんが住む大阪まで会いに。

階堂さんは終始御機嫌で、北新地の馴染みのお店を何軒も梯子して、森下直さんを接待、大好きな中村美律子の歌をカラオケで歌っていた。

僕はもっと森下直さんとドラマの話をした方が良いと思ったのだが。

ドラマの話は全く出なかった。

ドラマ「別れさせ屋」はキャスティングも難航し、脚本作りも上手くいかなかった。

ドラマ「フレーフレー人生!」



「別れさせ屋」の放送が終わり、僕は次のドラマ「フレーフレー人生!」の仕事に入った。

ドラマ「天国への階段」



階堂さんは鶴橋監督が撮る「天国への階段」の「情景撮影」に付き合って、東京競馬場に通っていた。

プロデューサーをやるべく、やる気満々だったと思う。

しかし、階堂さんは上司から突然「ドラマ制作の現場から離れる様に」と言われた。

階堂さんは突然、会社を辞めた。

ある日、僕の携帯電話に階堂さんから電話があった。

「きっときっと面白いドラマを作るからね〜また連絡するね‼️」

階堂さんの声はうわずっていた。

僕はとっても心配した。

ウチの会社で、僕が階堂さんの声を聞いた最後の人物になろうとは・・・その時は想像だにしなかった。

階堂さんは自宅近くでジョギング中に亡くなった。

「テレビ局」を辞めて、制作会社や鶴橋監督が階堂さんから離れて行ったと感じていたのではなかろうか❓

亡くなった当時、階堂さんは50歳過ぎ。

もう少し、生きていれば、僕に言った様に「本当に面白いドラマ」を観せてくれたかもと思うと悔しい。

「金魚鉢」で「ビール」で口を嗽ぎながら、僕を見る階堂昌和さんの優しい笑顔を忘れないだろう、僕は。ずっと。

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