新宿ゴールデン街・井原啓介さん
2015年から一滴もお酒を飲んでいない。それゆえ、僕にとって「母港」である「新宿ゴールデン街」にはほとんど足を運ぶ機会が無いのである。
初めて、「新宿ゴールデン街」に行ったのは25年前。同期のアニメプロデューサー・スワッチこと諏訪道彦君が連れて行ってくれたのだ。
店の名前は、「酒乱童べるじゅらっく」。マスターは俳優の井原啓介さん。山口県出身のAB型。僕と一回り違う子年、1948年生まれである。
僕は何故かAB型に好かれる強い傾向がある。井原さんにも本当に可愛がってもらった。開店のよる7時からお店に行き、深夜3時まで、8時間お酒を飲んで、マスターや他のお客さんと話し続ける。井原さんは、人と人との絆を大切にしてくれ、初めてのお客さん同士を紹介してくれた。
ここで知り合ったのが、映画監督の小平裕さん、同じく「トラック野郎」シリーズの鈴木則文さん。小平監督の2時間ドラマに井原さんはしばしば出演していた。井原さん曰く、すぐ緊張して、台詞が出て来なくなるので、出来るだけ台詞が少ない役で、キャスティングして欲しいと、役者には珍しいリクエストを監督に出していたそうだ。
僕が新宿ゴールデン街に通い始めた時代、「本編(映画)のスタッフ」が「テレビのスタッフ」に酔って因縁をつけてきた事がしばしばあった。みんな熱く論争するのが好きだった。店内で一髪触発の喧嘩が起きそうになると、井原さんはその野太い声で、「店の床が抜けるから、喧嘩するなら、外でやってくれ」と言い、喧嘩が終わる様に持って行ってくれた。度量が違っていた。
山口県に帰省した時の事、地元のヤクザが井原さんと再会して、緊張のあまり、直立不動で挨拶してきた、と井原さん。若い頃、結構ヤンチャだったとご本人は言われていた。
「酒乱童べるじゅらっく」は、カウンターが7人、ボックス席が4人の小さな店だった。僕が夜な夜な通ってた頃は、開いている8時間、僕以外お客が1人も来ない事がしばしば。井原さんは「こんな状態じゃ、つぶれる!店を閉めようかなぁ」とボヤいていた。僕はお客が来ない方が嬉しかった。ずっと井原さんと話ができるからだ。
そんな日は店を閉め、二人で新宿三丁目の「吉野寿司」に行った。朝方3時から閉店の5時まで、刺身をアテに飲むのである。井原さんは始発電車で帰って行った。
井原啓介さんは、病気に罹り、店を居抜きで手放した。
病院に御見舞いに行くと、すえた臭いのする病室で数人の患者と共に、寝ていた。首から下は感覚が無いとの事だった。タバコが吸いたいというので、一緒に見舞った人と二人で、井原さんを車椅子に乗せた。井原さんの身体は全く感覚が無く、車椅子に乗せるのはとても大変だった。車椅子の金具に挟みそうになり、慌てて身体を引きずり上げた。
井原さんは、ローソンの前の喫煙スペースで美味そうにタバコを吸った。「健康なお二人がタバコを吸わないのに、病人が吸っているのは何だか可笑しいねえ」。タバコの白い煙が青い空に吸い込まれていった。
それから、3ヶ月程して、井原さんの訃報が届いた。夜空を見上げると、そこに井原さんの笑顔を見た。いつまでも、僕を見守ってくれる気がした。井原さん、「吉野寿司」でのあの時間が好きでしたと、僕は心の中でつぶやいた。
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