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「山田工業」山田さん


日本交通公社

僕は「不整脈」「高血圧」「肝機能」で異常値が出て、大学4回生で行きたかった旅行代理店「日本交通公社」から内定取り消し、行き場を失った。単位はすべて取っていたので、先生にゼミの単位を落としてもらい、留年する事になった。

1週間に1回のゼミと家庭教師のアルバイトが生活のすべてだった。

ゼミもアルバイトも無い日は、少々うつ状態で、昼頃起きて昼御飯を食べ、本屋に行き、立ち読み。帰って来て、テレビを観て、晩御飯を食べ、寝るという自堕落な生活を続けていた。

新明和工業 西宮工場(当時)
工場内
ゴミ収集車


ある日突然、知り合いが新明和工業と言う「ダンプカー」や「ゴミ収集車」を作っている会社でのアルバイトの話を持って来てくれた。

僕も気持ち的にモヤモヤしたものを消す為に、新しい環境も良いかと思い、行ってみる事に。

場所は阪急電車今津線の阪神国道駅で降りて、徒歩15分。当時、自宅が阪急千里線の関大前駅だったから、結構通勤時間がかかった。

初日、新明和工業の人事部の人の案内で、ロッカールームに行き、白いツナギに着替えて、作業現場まで行く。

僕の職場は新明和工業の中にある下請けの山田工業だった。社長の山田さんが一人っきりでやっていた。年齢は30歳過ぎだろうか。

つまり、山田社長とバイトの僕の2人で黙々と作業をする。一日中。

荷台を上げる油圧装置
荷台を上げる油圧装置
油圧装置で荷台が上げられた
ゴミ収集車


仕事は、小型のダンプカーや清掃車の荷台を斜めに上げる装置を作る事。

機械を置ける台の数が一度に12と決められているので、1日一生懸命やっても、出来て48か60。

手がベトベトになる緑のグリースを使って、金属製の機械と緩衝剤になるゴムの輪を止めていく。

ほぼ仕上がったら、電動のネジ回しで、ネジをきっちりと締めて、最終の仕上げ。

結構単純な作業の繰り返し。これを毎日繰り返すのはかなりしんどい。

昼は社員食堂に並んで、ごはんと味噌汁と決められたおかずを取るという収容所状態の食事。

白ごはん

午前中に電動のネジ回しを使った時、手に震えが残っていて、力が入らず、ごはんの入った器を落としてしまった。人々の並ぶ列の床に這いつくばり、たくさんの足が立ち並ぶ中、汚れた米をかき集めた苦い思い出がある。

山田さんはゴミ収集車に乗るか、今の仕事をするかの二択。結構悩まれたそうである。

今の仕事についてからも、ギャンブルで借金を作り、会社を辞めていった人を数多く見てきたという。その中には親しい人もいた。

御自身も、ストレスが溜まって、給料が入ると、西宮のスナックでドンチャン騒ぎをして、ホステスをみんなタクシーに乗せて、神戸三宮に繰り出す事が1ヶ月に1回はあるとの話。

そんな山田さんには6ヶ月前に生まれた娘さんがいて、彼女の話をする時はデレデレ。彼女の存在は、山田さんの仕事へのやり甲斐にも大きな影響を及ぼしていた。
娘さんが20歳になった時、晴れ着の娘と一緒に写真を撮るのが山田さんの夢なのだそうだ。

晴れ着姿の娘さん(イメージ)



しかしながら、山田さんは医者に言われている。

肝硬変がかなり進んでいると。

今のペースで飲み続けていると、余命は半年。娘の晴れ姿は絶対見られない。

だけど、山田さんはこの先、何十年も今の単縦作業を毎日しなければならないのだ。

そうしなければ、娘さんを養えない。奥さんはどうしていたのだろうか❓記憶に無い。

この段階で、僕は新明和工業の別の部署に行き、程なくアルバイトを辞めてしまったので、山田工業社長の山田さんのその後を知らない。

僕は翌年、テレビ局に入った。
来月、卒業する。

テレビ局

山田さんのが御存命であれば、70歳を過ぎている。娘さんは40歳過ぎ。孫もいるかもしれない。

晴れ着を着た娘さんと笑って写真に写る山田さんを思い浮かべる。そうであって欲しい。山田工業の山田さん、忘れられない人である。

先日、西宮市の阪神国道沿いの新明和工業の前を通ってみたが、工場自体が移転したのか、更地になり、何も無かった。

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