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紳助のサルでもわかるニュース

1994年3月、先輩プロデューサーの荻原武博さん(故人)と僕は緊張気味に、六本木の「全日空ホテル」の一階喫茶に向かっていた。

六本木 全日空ホテル(当時)
六本木 全日空ホテル(当時)
喫茶ラウンジ



そこで待っていたのは島田紳助さん。

島田紳助さん



1994年3月に「EXテレビ」が終わって、次の新番組の打ち合わせだった。

僕たち2人は紳助さんに説明する「番組企画書」を3本持っており、喫茶コーナーで紳助さんを待った。

徐ろに現れ、僕たちの前に勢いよく座った島田紳助さんは僕たちの考えて来た「番組企画書」には目もくれず、突然饒舌に話し始めた。

その喋りの速さが、彼がその企画をやりたがっている強い気持ちをよく表している。

後に「紳助のサルでもわかるニュース」として放送された番組はこうしてスタートした。

「アホな芸人・タレントに『時事問題』を勉強させて、生放送で先生として、同じアホな芸人・タレントの生徒に対して教えるんや‼️もちろん、その『時事問題』に関する専門家は呼んでおいて、補足説明はしてもらうんやけどな」

その教室を自由に仕切る役割が島田紳助さんだという。

本になった
「紳助のサルでもわかるニュース」
テレビ朝日「サンデープロジェクト」
の司会だった島田紳助さん


その頃、紳助さんはテレビ朝日で「サンデープロジェクト」という「時事問題」を毎回テーマにした番組に出演していた。

そうした「時事問題」の番組を自分でやってみたくなったのだろう。

しかも、アホな芸人・タレントを使う事によって、難しい「時事問題」も彼らのレベルに引き下げられ、視聴者にも理解しやすくなるのだ。

僕は「初回」のディレクターをする事になった。

テーマは当時、戦争が続いて泥沼化していた「ボスニア・ヘルツェゴビナ」である。

手始めに、僕が千葉大学の「ボスニア・ヘルツェゴビナ」を専門にされている大学教授を訪ねて、勉強する。

先生の喋りを聴きながら、必死でノートをとった。

「テレビ的」に分かりやすくする為に、「テレビ慣れしていない」先生にいろんな質問をする。

膨大に殴り書きしたノートを千葉から根岸に移動する電車の中で、分かりやすくまとめる。

元プロ野球選手の加藤博一さん


今度は元プロ野球選手でタレントの加藤博一さん。

根岸の高台にある加藤さんの御自宅までお邪魔して、「ボスニア・ヘルツェゴビナ」について、今教えてもらって来た「学問」を噛み砕いて伝える。

ディレクター担当2階目のテーマは「国際連合」だった。

京都大学教授 高坂正堯さん(当時)


教えてもらうのは、京都大学の高坂正堯教授。

京大吉田キャンパスの高坂正堯先生の研究室まで伺う。

高坂先生はテレビに出慣れているので、15分位で打ち合わせは終わった。

タレント・飯島愛さん


生放送で教えるタレントは飯島愛さん。

忙しい彼女のスケジュールがなかなか取れなかったので、放送当日、早めに局に入ってもらい、タレント控室で1対1で飯島愛さんに僕が教える。

めちゃめちゃ、愛ちゃんはアタマの良い子で、スポンジが水を吸収する様に「国際連合」について理解してくれた。

2回とも、紳助さんの素晴らしい仕切りもあって、番組は今までの番組に無い、新たな魅力を持ったものになったと思う。

ちなみに、「サルでもわかるニュース」という「番組タイトル」を発案したのは後輩ディレクターの前西和成だ。

1994年4月に始まった「紳助のサルでもわかるニュース」は高視聴率を取り、数年間続いた。

僕は1994年8月、人事異動で「東京制作部」に移り、ドラマ制作に励む事になった。

一緒に番組を立ち上げたプロデューサーの荻原武博さんも早逝され、島田紳助さんは引退した。

タレント講師を務めて頂いた加藤博一さん、飯島愛さん、高坂正堯教授も鬼籍に入られた。

僕もこの3月でテレビ局を退職する。

「光陰矢の如し」とはこういう事を言うのだろうか❓

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