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うんこと死体の復権

「うんこと死体の復権」という映画の事を「昨日付けの新聞記事」で知った。

「キッチュ」こと、「松尾貴史さん」がコラムで書かれていたのだ。

8/3から「公開中」のこの映画、「松尾貴史さん」は「タイトル」が気になって、観に行ったそうである。

関野吉晴監督



観てすごく良かったという。

観終わった後、「哲学」について考えた。

つまり、「生きている意味」「生きている目的」を深く深く考えたという事なのかも知れない。

うんこ
うんこ



「人間のうんこ」は「トイレの発達」と共に「水洗」で流されて、「下水」の「浄水場」で「固形化」され、「焼却」される。

昔は「人間のうんこ」は「地面」に垂れ流され、それが「植物」を育てる「肥料」となる。

その「肥料」で大きく育った「実」を「鳥」が啄ばみ、その「鳥」が遠方まで移動して、「植物」の「種子」の混ざった「排泄物(うんこ)」を「地面」に落として、そこに新たな「植物」が芽を出すのだ。

その「実」を「人間」が再び食べる。

この様にして、「人間も含めて、生き物の世界」は「循環」していた。

しかし・・・今は。

死体



「死体」もある意味そうだった。

「畳の上では死ねぬぞ‼️」

時代劇を観ていると、よく出て来る「悪役」の台詞。

昔はほとんどの人が「畳の上で死んでいた」のである。

そして、「村々の墓地」に「土葬しされ、「死体」を「バクテリア」が分解して、「人間」は「自然」へと還って行った。

しかし、こちらも今は「病院のベッドの上」で亡くなり、「火葬場」で焼かれて、「骨」だけになって「墓」に埋葬する。

「うんこ」と「死体」、「今の世の中」ではどこか「汚れていて、忌み嫌われるもの」という「存在」。

しかし、「人間」は毎日「排泄」するし、「生まれて来たら、必ず死ぬ」。

「昭和の時代」、そんな「社会の汚れ」があっちこっちにあった。

「傷痍軍人」と呼ばれた人々
(資料画像)
「傷痍軍人」と呼ばれた人々
(資料画像)
「乞食」と呼ばれた人々
(資料画像)



僕が子供の頃、神戸・三宮で見た「風琴を鳴らし続ける傷痍軍人」や歩いていると近づいて来る「乞食」。

正直、子供心に、彼らはとっても怖かった。

しかし、彼らは「戦争の悲惨さ」の「象徴」であり、「時代の貧困さ」の「象徴」であったのだと、大人になった今では思う。

駅にあった痰壺
駅にあった痰壺



中学・高校の頃、通学途中の阪急十三駅の地下通路の端に必ずあった「痰壺」。

チューインガムの吐いた跡



そして、電車のホームには「吐き捨てられたチューインガム」の黒くなった固まり。

それを「パテ」で削ぎ剥がし、イタチごっこの様に掃除するおじさん。

「昭和の世の中」は「いろんな意味での『陰』」が溢れていた。

「インターネット」が出来て、「0」と「1」の「デジタル」で判別される「今」。

「多様性」が重要だと言いながら、「社会の『陰』の部分」をひたすら無くそうとしてはいないだろうか❓

「陰」こそ、「社会のマイナス部分」を「象徴」して、「是正」して行く「部分」を「考察」する「バロメーター」なのに。

「クリア」で「綺麗」な部分しか許さない「今の社会」は「生き物としての人間」を「生きにくく」しているのでは。

「コンプライアンス」と言いながら、「深夜」では「ドロドロの不倫ドラマ」や「性表現が激しいドラマ」を垂れ流しで放送している。

「儲ける」為に。

「社会」もそれを見て見ぬ振り。

だから、今こそ「うんこ」と「死体」は「魅力的」であり、「必要」なのだ。

僕も「ポレポレ東中野」にこの映画を観に行くとしよう。

「11PM」(大阪イレブン)



僕が入社してすぐ配属された番組「11PM」。

1965年にスタートして、1990年まで25年間続いた。

藤本義一さん



「大阪イレブン」の司会者・藤本義一さんが「最終回」最後に生放送で言った言葉。

「『11PM』は『時代の排泄物』である」

だから、四半世紀も続いたのだ。視聴者に支持されて・・・

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