鍛治國義さん
鍛治國義さんと一緒に仕事したのは、1983年夏、「第1回高校生クイズ」の会場となった今は無き「大阪球場」での事だった。
ウチの局の当時の「夏の特番」は「鳥人間コンテスト」「千里音楽祭」「日本民謡大賞近畿大会」、そして「高校生クイズ近畿大会」の四つだった。
「制作部」の新入社員である諏訪道彦、梅田尚哉、そして僕は全ての番組に付いて勉強する様に上司から言われていた。
僕は入社前から「アメリカ横断ウルトラクイズ」が大好きだったので、「高校生クイズ近畿大会」の収録当日はワクワクしていた。
暑い夏の日。
始まってから数年、「高校生クイズ」は「夏休み」と「大晦日」の年2回放送されていた。
今では知る人も少ないだろう。
「アメリカ横断ウルトラクイズ」の司会者でもある日本テレビ・福留功男アナウンサーが「後楽園球場」に、ウチの羽川英樹アナウンサーが「大阪球場」にいて、「二元中継」で同時に同じクイズが出される。
「YES」「NO」クイズが基本だったと思う。「大阪球場」からどこかへ移動した記憶が無いから。
「大阪球場」には「オーロラビジョン」が無い。
そこで、業者に発注して、トラックの荷台に載った「オーロラビジョン」をレンタルしたのである。
「オーロラビジョン」が球場の外に到着。搬入を始めようとしたその時‼️
わずか数センチだが、「オーロラビジョン」のいちばん上が「球場の出っ張り」に当たって、球場内に入らないのである。
スタッフ全員の顔色が真っ青になった。
いろんな方法を試してみるが、どうやっても「オーロラビジョン」が入らない。
「オーロラビジョン」が無いと、「クイズ」が出来ないのだ。
誰かが叫んだ‼️
「みんなトラックの荷台に乗れ‼️」
日本テレビのスタッフや鍛治さん、僕たちはトラックの荷台に慌てて上がった。
そして、みんなで「ジャンプ」した。
その間に、トラックの運転手さんはトラックを動かし、我々の「ジャンプ」によって、高さが一瞬下がった「オーロラビジョン」は無事、「大阪球場」の中に入ったのであった。
後に「アメリカ横断ウルトラクイズ」の「第11〜15回」「今世紀最後」の「総合演出」を担当する日本テレビの加藤就一さんも一緒にジャンプしていた。
一方、東京「後楽園球場」の福留功男アナウンサー付きのフロア・ディレクターをしていたのが、後年「高校生クイズ近畿大会」でチーフ・プロデューサーとして知り合う事になる日本テレビ・篠崎安雄さん。
先日、池袋で飲んだ時、篠崎さんから聞いた話では、この時、「第1回高校生クイズ」の「後楽園球場」は大混乱していて、「大阪球場」どころでは無かったという。
この様にして始まった鍛治國義さんと僕との「高校生クイズ」の結ぶ関係。
鍛治さんは元々「カメラマン」出身で、「制作技術部」にいた。
その後、藤山寛美さんの松竹新喜劇の中継番組「寛美85分」のディレクターがレギュラー番組。
「カメラマン」出身という事もあり、鍛治さんは「高校生クイズ近畿大会」の会場でも「収録前」に全ての「中継カメラ」を自らの目で覗いてみずにはいられない性分だった。
僕は出来るだけ、「高校生クイズ近畿大会」のスタッフに潜り込んだ。
「高校生の喜怒哀楽」を間近で見られるのが大好きだったのだ。
1988年、鍛治さんがメイン・ディレクター、僕は「唐招提寺」の「決勝早押しクイズ」のディレクターだった。
奈良の第一会場「若草山」はすんなり決まったが、鍛治さんと僕は「決勝早押しクイズ」を「東大寺大仏殿」の前でやりたかった。
それは「映像的にも凄い事」だと思ったから。
当時はまだ、「東大寺」で「コンサート」などやっていない時代。
「東大寺」の寺務所に、鍛治さんと僕の二人で伺い、「東大寺大仏殿の前で早押しクイズをやりたい旨」を伝えたところ、応対してくれた温厚そうな僧侶が急に烈火の如く怒り出した。
つまり、「仏」にお尻を向けて「高校生が早押しクイズをする」とは何事か‼️というのである。
僕たちは這々の態で、東大寺から逃げ帰った。
帰りの近鉄の中では2人とも押し黙っていた。
そして、「薬師寺」にも断られ、次に向かったのは「唐招提寺」。
これが最後の砦と思えた。
ここでも粘り強く交渉。
やっと、収録の許可を得る事が出来た。
万歳である。
収録当日、「唐招提寺」には「大型中継車」2台、カメラ5台、早押し機12台、高校生・スタッフ合わせて、100人以上の人が押しかけた。
「唐招提寺」もこの規模が事前に分かっていたら、収録場所として貸すのを躊躇していたかも知れない。
この年、後に「ダウンタウンDX」の「総合演出」を務める西田二郎が「制作部」の新入社員として、「高校生クイズ近畿大会」に付いた。
性格が優しい僕は西田二郎に「分からない事があったら、何でも遠慮せずに訊いていいよ!」と言った。
自分が新人の時、特に「特番」では何をして良いか分からず、肝を冷やした事が何度もあったから。
「高校生クイズ」の「打ち合わせ」は何度も行なわれる。
いちばん大きな会議は宿舎の大広間に、福留功男さん始め、100人以上のスタッフが集まっての「全体会議」。
それから、「個々の部署」との様々な打ち合わせ。
「クイズ」の進行に支障が出る事は絶対許されない。
たくさんの高校生が楽しみにして参加するクイズ番組だから。
それはほとんど「生放送」に近い感覚だ。
それゆえ、打ち合わせは深夜まで続く。
「クイズ問題に関しての会議」は「福留功男さんと日本テレビのスタッフだけ」で密室に籠って行なわれる。
「クイズ」は絶対、外に漏れてはいけないから。
それ以外の打ち合わせに、ディレクターである鍛治さんと僕は全て参加する。
ところが、打ち合わせが終わる度に、西田二郎が「様々な疑問点」を僕に訊いて来るのである。
「ええっと、コレはどういう事か、教えてもらえませんか❓」
無邪気そうに。
多分、鍛治さんに訊くのは怖いのだろう。
僕は彼に「いつでも訊いていいよ!」と言ったし。
A型の西田は自分が納得しないとモヤモヤするらしい。
西田二郎の「質問攻め」は深夜まで続いた。
深夜3時頃、僕は言った。
「西田、そろそろ勘弁してくれ!もう喋り過ぎて、喉がガラガラなんだ」
彼は不思議な顔をして、僕を見つめた。
この年の「高校生クイズ近畿大会」は開催前夜、奈良地方に土砂降りの雨が降った。
第一会場である「若草山」は急斜面。さらに地面は泥状に泥濘んでいる。
鍛治さんが西田二郎ともう1人の新入社員である木村尚美にリハーサルを兼ねて、「若草山の急斜面」を何度も走らせた。
「急斜面」を何度も上り下りする2人。
さすがに20代の若さと言っても、次第に彼らはバテてきた。
「ちゃんと走れ〜‼️もっと速く‼️カメリハにならんぞー‼️」
鍛治さんから容赦無い怒声が2人に降り注ぐ。
一万人以上の高校生がこの「若草山」で走るのだ‼️
みんなでクイズをするのだ‼️
「インターネット」や「スマホ」の無い時代、「高校生クイズ」は高校生にとって、「大切なイベント」だったのである。
だから、「近畿大会」だけで、一万人を超える高校生が集まったのだった。
日本全国で20万人近い高校生が「高校生クイズ」に参加していた。
西田二郎はこの時の事を今でもはっきり憶えているという。かなり、しんどかったらしい。
この年の「高校生クイズ近畿大会」の編集をやっている時、鍛治さんが僕にある事を訊いて来た。
「第一会場で『日本テレビのスタッフ』がかけていた曲のタイトル知ってるか❓」
「渡辺美里の『My Revolution』ですよ」
鍛治さんはその曲を気に入っていて、エンディングで流した。
「高校生の動く映像」に乗った曲はとても合っていて、僕は感情を揺すぶられた。
1992年から1994年の3年間、僕は「高校生クイズ近畿大会」のチーフ・ディレクターを担当。
「決勝早押しクイズ」のディレクターは後輩の田中壽一。
1992年が「京都・嵐山」。
1993年が「大阪・花博会場」。
1994年が「姫路・姫路城」。
第一会場である。
「高校生クイズ近畿大会」は「第一会場」から「決勝会場」までを1日で収録する。
夏の炎天下でだ。
勝ち抜いた「高校生」には弁当が配られるが、僕たちディレクターやプロデューサーは弁当を食べる時間など無い。
大阪で開催された1993年、全ての収録が終わって、大阪・京橋の会社に帰って来ると、外は真っ暗。
鍛治さんと僕ら「制作部」のスタッフは「お疲れ様のビール」を「制作部」のソファーの周りに集まって、ひたすら飲んでいた。
その時、窓外に打ち上げ花火が上がった。
そう、その日は「天神祭」だったのだ。
何発も何発も打ち上がる花火を見ながら、僕らは「疲れ」なのか「酔い」なのかも分からず、とってもいい気持ちになっていた。
鍛治國義さんは3年ともプロデューサーを務め、僕たちディレクターがやりたい事を何でも自由にやらせてくれた。
笑うと優しい人柄が鍛治さんの滲み出た。
気が弱いのも、世渡りが下手なのも、人間的で好きだった。
小太りなのも、大きな包容力を持っている様に思えた。
司会は当時、日本テレビアナウンサーだった福沢朗さんだ。
1994年の「高校生クイズ近畿大会」の放送が終わる頃、僕と田中壽一は東京の「ドラマ制作部」に異動になった。
そして、一昨年、夏頃だったろうか、記憶がはっきりしないが、「高校生クイズ」の盟友・鍛治國義さんは80歳で亡くなられた。
1994年8月に東京に移り住んでから、一度もお会いする事は無かった。
今はそれだけがとっても残念だ。
「高校生クイズ近畿大会」で長年チーフ・プロデューサーを務められていた、「朝の連続ドラマ」のチーフ・プロデューサーでもある今岡大爾さんも鬼籍に入られた。
今岡さんは、10時間を悠に超える「高校生クイズ」の会議の際、会社近くのイタリアンレストランから食べきれないほどの大量の料理と大瓶のビール十数本を、延々続く会議で疲労困憊している我々スタッフの為に出前を取ってくれた。
我々はそれを貪る様に食い、酔いしれた。
「高校生クイズ」で知り合った日本テレビ・篠崎安雄さんは「アメリカ横断ウルトラクイズ」の第1回から「美術」として、スタッフに付き、「ディレクター」になり、「今世紀最後」の時には「チーフ・プロデューサー」を務められた。
ほとんど全ての「アメリカ横断ウルトラクイズ」と多くの「高校生クイズ」に関わった方である。
篠崎安雄さんはとてもフランクな方。
日本テレビ以外のスタッフとも分け隔てなく接し続けてくれていた。
とっても仕事には厳しいが、普段はニコニコ笑っている温厚な人柄。
だから、僕たち関西のスタッフも頑張れたんだろうなぁー‼️
篠崎さんとは今でも1年に1回位の間隔で飲みに行く。
81歳になった今でもめちゃくちゃ元気で、ビールと日本酒をグビグビ飲む。
福留功男さんも「アメリカ横断ウルトラクイズ」のスタッフによると、毎週ゴルフに出掛けるほど、お元気だそうだ。
「人」は「人」との付き合いが大切なんだと、「テレビ」を42年、現場でやって来て、つくづく思う。
今年の「高校生クイズ」、最高に面白かった。
天国から鍛治さんも観ていた事だろう。
高校生たちの笑顔を楽しんで・・・