大阪イレブン
1983年(昭和58年)4月、僕は「よみうりテレビ」の本社「制作部」に入社。
同7月からは、「11PM」(大阪イレブン)に配置になった。
同期の諏訪道彦(のちのアニメ「名探偵コナン」のプロデューサー)が基本「火曜イレブン」で、僕が「木曜イレブン」。
番組のチーフ・プロデューサーが「とよさん」こと豊永幸男さん。「びっくり日本新記録」や「鳥人間コンテスト」のプロデューサーである。
「火曜イレブン」のプロデューサーは、「照明部」上がりの職人肌の「おかやん」こと岡島英次さん。怒ると怖い!
「木曜イレブン」のプロデューサーは、寡黙で、「鳥人間コンテスト」のディレクターもやられていた「おにい」こと西村良雄さん。
西村さんはカバンを持たず、夕方退社される時には、ジーンズの後ろポケットに翻訳物の文庫本を突っ込んで会社を出て行かれた。
その姿がすごくカッコ良かったのを憶えている。
「火曜」のディレクターは木村良樹さん。「音楽」に造詣が深く、「制作部」でも随一、人脈が広かった。
それゆえ、「年賀状」の数も「制作部」で、いちばんだった。
「火曜」のディレクター、喜多村健二さん。「全日本有線放送大賞」で「サブD(本社サブでスーパーを入れたり、CM入りを指示するディレクター)」を長く務められた。
「火曜イレブン」は木村さんと喜多村さんの二人で二週おきにディレクターをやっていたのだから、凄いというしか無い。
お二人とも本当に「職人」だ。
「木曜イレブン」は岩渕輝義さん。まだ売れる前の「タモリさん」を使ったのがこの人。文学青年の様な作風だった。「大阪イレブン」最終回のディレクターもこの岩渕さんだった。
その下、定期採用再開一期生が、後に「鶴瓶上岡パペポTV」「EXテレビ」「ダウンタウンDX」を作られる白岩久弥さん。
白岩さんは一滴もお酒を飲めない体質だったが、麻雀が大好きで、よく夕方から東天満の社屋近くの雀荘で卓を囲んだものだ。めっちゃ明るい性格。
その下が山岸正人さん。「11PM」の本番終了後、飲みに行き、「テレビ論」「イレブン論」になると熱くなられて、僕と諏訪は「死んだらええねん!」とよく言われた。
翌日にはお互いケロッとしていたが。
僕らより二つ年上なのが、山西敏之さん。「11PM」でのデビュー作は、「上田正樹の世界」。僕と同期の諏訪道彦がADとして、鴫野のロケに同行した。
一つ上が「ノリさん」こと、山田典昭さん。「ガジェット(必要の無いもの)」をテーマにデビューされた。
こんなメンバーで「大阪イレブン」はやっていた。
ディレクターもプロデューサーも分け隔て無く、フロアー・ディレクターをやり、タイム・キーパー(生放送で「時間」を管理する役目の人)をやった。
生放送が24:30頃終わったら、一階のパーラー横で司会の藤本義一さんと雑談。藤本さんはADの僕たちの意見にも耳を傾けて下さった。
それから、五階の制作部に、その日使った道具を持って上がり、きったない応接セットに集まって、ビールで乾杯。
制作技術部も同じフロアーだったので、ディレクターになってからはよく顔を出して一緒に飲んだ。色んなお小言も聞いて、それがのちのち参考になった事も。
程良く酔ったら、空心町の交差点にある「ニンニクラーメン」へ。
そこでまたまた瓶ビールを頼み、チャーシューやもやし炒めをアテにグビグビ飲む。
時には、この日の番組の事、時には「11PM」とは何かで論争。
白熱して、「OKタクシー」を待たせる事もしばしば。
でも、仲は良かった。
まだまだ、テレビの黎明期を引き摺る良い時代であった。
午前3時頃にタクシーに揺られ、気持ち良く酔っ払って帰宅。
本番の翌日は昼頃までに出社すれば良かったから、ぐっすりと眠れた。
「テレビ」はまだ熱く、「テレビを創る人たち」もまた熱かった。
「携帯電話」も「インターネット」も「スマホ」も無い「幸せな時代」だった。