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呼び出し電話

小学校の頃、クラス名簿には当然自宅の住所と電話番号が載っていた。「個人情報保護」が言われる、ずっと前の事である。クラスには、電話番号の横に、(呼)マークが付いた家庭が4〜5件あった。

カバー付き黒電話



自宅に電話が無く、近所の家に電話がかかり、そこの人が呼びに来てくれるから、(呼)。「呼び出し電話」である。

うちの家には割と早くから電話が有った。向かいの家には電話が無く、うちの電話が、(呼)になっていた。

向かい宛ての電話がかかって来ると、うちの誰かが呼びに行く。向かいの家の子供が呼び出し電話の度に、うちの冷蔵庫から果物やお菓子をチョロまかして行って、母が激怒していた事を思い出す。

しかし、そうやって、向かいの家ともコミニケーション出来たのだから、ある意味幸福だったのかもしれない。

バスクリン


アパートのお隣さんは、いわゆる「二号さん」が住んでいた。彼女から僕は、カラフルな壁紙をもらった事があった。使用済みの壁紙の模様は、「赤」と「青」と「銀色」で出来ており、僕はそれを美しいと思った。そして、お風呂の排水がバスクリンで黄緑色になっているのが、子供心に艶かしかった。

ベルマーク


小学校では、家でベルマークを集めて、持って来る様に先生に言われ、ベルマークの付いた商品をわざわざ買いに行った記憶がある。ベルマークは集めると、学校の備品と交換できる様なシステムだった様に思う。

学研の「科学」と「学習」を小学校の校内で売っていたのも、この頃の事だ。それぞれ、「理科系的付録」「文科系的付録」が付いていて、その付録が豪華だった。転校生で、友だちがほとんどいなかった僕は、「科学」と「学習」の発売日を毎月楽しみにしていた。「学習」の増刊、小説ばかりを載せた「読み物特集号」にもどっぷりハマっていた。

学校への往復、僕は二宮金次郎の様に、毎日、本を読みながら通った。誕生日もクリスマスもプレゼントは本だった。

転校生でいじめられていた事もあり、反発で男子生徒に暴力を奮っていた僕。「僕と友だちになる為にはどうしたらいいか?」という議題で、ホームルームが開かれた事もあった。結論は出なかった。

やがて、僕は高学年になり、中学受験の為に、塾に通い始めた。クラスメイトとの関係はますます希薄になった。

西宮市立浜甲子園小学校
西宮市立浜甲子園小学校


あれから、50年近い歳月が流れた。西宮市立浜甲子園小学校を昭和47年3月に卒業した皆んな、僕の事を憶えていたら、連絡下さい。

noteやっていて、良かったと思える再会があるとイイなぁー

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