11PMの頃
僕は宴会で浮かれていた。
場所はJTB(日本交通公社)の箱根の保養所。
時は1981年10月。この当時、内定をもらった学生は10月1日に東京駅に隣接するJTB本社に集合、新橋のホテルに缶詰めにされ、宴会。
二日目、箱根の保養所に移動して、またしても宴会。
そして、三日目東京駅のJTB本社に戻って来て拘束が解かれ解散となるのである。
大阪の自宅に帰って来て数日、JTBからの電話で僕は内定を取り消されたのである。
「不整脈」「高血圧」「肝機能異常」で引っかかった。
添乗員等の不規則でストレスの溜まる勤務もあり、この結果となったのである。
さすがにすごいショックだった。
この年の夏(1981年8月)、友人と舞鶴に海水浴に行き、麻雀をしていると二日間で三回「役満」を上がった。
大学へ行く途中でお腹が痛くなり、漏れそうになって、駅前のパチンコ店でトイレを借りた。
トイレを借りるだけでは申し訳ないと思い、パチンコをやったらフィーバーして、500円が1万円になった。
それからはパチンコ屋に行く度にフィーバー。そんなことが連続して10回続いた。
こんな事があり、自分の持っている「運」を使い過ぎていると不安に思っていたところだった。
それが見事に当たった。
単位はすべて取り終えていたので、「ゼミの単位」を落としてもらい、一年間の就職浪人が始まった。
大学へ行くのは「ゼミ」のある一日のみ。週六で休みだ。
家庭教師のバイトだけは行っていたが、他の日は昼まで寝て、昼ごはんを食べる。
夕方に本屋に行き、立ち読みをして帰宅。
夕ごはんを食べたらテレビを観て就寝。
鬱だったのかもしれない。
本当だったら、いろんなアルバイトを経験して、社会をもっと見た方が良かったに違いない。
しかし、人見知りもあり、全くそういう意欲は全く湧かなかった。
自分は「人生」で何がしたいんだろう❓と思い詰めていた。
そして、子どもの頃から大好きだった「テレビ」と、海外で働ける「メーカー」に絞る事にしたのだ。
翌年は「サントリー」「三菱電機」「テレビ局(在阪局)」の3社を受けた。
いちばん早く「内定」の出たのが「テレビ局」。
1983年4月、入社。
人事研修を経て、配属が決まる。
研修の際、「制作部」を見学した時、後に社長になる人事担当者が言った。
「見てみ。みんな顔黄色いやろ。みんな肝臓悪いねん」
「テレビ局」の健康診断でも「肝機能の数字」が正常値に入っていなかった僕はこの一言でホッとした。
女子一名を含め、17名いた同期だったが、「制作志望」が半分、「報道志望」が半分に分かれた。一人だけ、「営業志望」がいた。
最終的に、僕は「制作部」に配属される事になる。
最初に付いた番組が桂三枝(現・文枝)さんの番組。
当時流行っていた「男女のお見合い番組」だった。
僕が入社した時の社屋は、「昭和33年に開局した当時のもの」。
スタジオは二つあったがサブ(副調整室・・・カメラを切り替えたりする部屋)は一つしか無かった。
事前に男女を会わせる事はできない。
チーフプロデューサーの今岡大爾さんが三枝さんの役をやり、僕たちADが男性陣の役をやって、リハーサルをした。
「デートをするとしたら、どこへ行きますか?」
今岡CPのその質問に「普通の答え」をすると、きつくどやされた。
僕を含め、ADは「想像もつかないデート場所」を収録と収録の間、二週間ずっと四六時中、考え続けた。
しかし、3つ年上の先輩D松下泰紀さんが新婚旅行で日本を空けている間に、この番組は低視聴率の為、1クールで終わった。
次に付いたのが、「のりお・よしおの何でも出前ショー」というロケ番組。
漫才師、西川のりお・上方よしおさんがリクエストを貰って、「代行サービス」するという内容。
第一回の内容は、笑福亭仁鶴さんの飼っている大型犬二頭を散歩させて欲しいという内容。
僕はロケ番組が初めてで、ロケテープを持って犬の後ろをウロウロ。
後で編集室で見たら、ほとんど全カット画面に見切っていた(本番中の画面に映る事)。
この番組のディレクター山岸正人さんには、「笑いが起こった後には、テレビを観ている視聴者が笑う『間』を作る事」を教えてもらった。
1983年7月、僕は「11PM」へ異動した。
まずは先輩ADのサブADをする形でインカム(ディレクターの指令やTKの時間読みが聞こえる装置)をして、「生放送」のスタジオに佇む。
頭は真っ白になり、全然、足が地に着いていない。
「生放送」はめちゃくちゃ怖い‼️
火曜イレブンの場合は、19:30から「今週のギャル」の事前収録があるので、そのFD(スタジオにいて、サブからの指令を出演者等に伝えるADのこと)を務める。ギャルの後ろに鏡が3つあり、その前でギャルがポールを持って踊るVTRを収録する。
どれだけ、ギャルをセクシーに見せるか、ADは常にアタマを悩ませていた。
11PM放送日の食事はというと、夕方会社の前の中華料理店で、チャーハンとラーメンを5分で。
初めてのTK(タイム・キーパー)をやった時、僕は極度に緊張していた。
「本番1分前」
「本番30秒前」
今日のディレクターは静かにやってくれるだろうか。
「本番15秒前」
いよいよ生放送がスタートする。
「10秒前」
「9(九つ・・・キューと読んでしまうとディレクターの合図と間違う為)」
「8」
「7」
「6」
「5」
「4」
「フィルムスタート(スタジオの生の映像に動画スーパーをする為には、当時フィルムが必要であった)」
「2」
「1」
本番スタート。
水着ギャルのセクシーな映像に「11PM」の動画スーパーが流れている。
20秒経ったら、今夜の「メニューVTR」に乗る。
ここでどれだけ、エロな映像で視聴者を惹きつけるかに番組の存亡はかかっている。
5秒刻みでテロップ5枚を消化して、最初のCMへ。
ディレクターを初めてやる時より、TK(タイム・キーパー)になった時の方が僕は怖かった。
今は「分業制」で、TKは「フリーの外部女性スタッフ」がやっている。
しかし、当時の「11PM」は全てを「社員スタッフ」だけでやっていた。
TKはVTRスタートのボタンもCMにいくボタンも操作し、その操作を誤れば、そのまま、画面にミスとして出るからだ。
でも、僕はそんなTKが好きだった。
ディレクターが各コーナーで欲している「時間配分」を「リハーサル」の時、冷静に読み取り、生放送の1時間、一番いいバランスで収めるのだ。
その為には「時間」を「サバ読み」をしていた。
本当は50秒しか経っていないのに1分と言ったり、その逆もしかりであった。
生本番終了後、藤本義一さんを囲んで話をし、お見送りをして、5階の制作部のフロアーへ。
そこで、イレブン弁当と呼ばれる冷えたゴハンが固まっている様な弁当を2つ食べる。
同じフロアーの制作技術部に挨拶に行き、P、D揃って空心町の「にんにくラーメン店」へ。
まずはビールを頼み、乾杯。ビールがしみる。
〆はラーメン。そして、タクシーにて帰宅。
月・水・金は何をしているかというと、先輩Dが取材に行くのに、付いていく。大きなビニール袋に取材テープをたくさん入れて。
今と違って、この取材テープが重い。
そして、取材チームの「メシ」の段取り。
これをおろそかにすると年配の技術スタッフから大目玉を食らう。
汗びっしょりになりながら、取材現場を駆けずり回っていた。
当時のテレビ局は開局当時の雰囲気がたっぷりと残されていて、制作部は野武士の集団であった。
ヒット作を出せば、廊下の真ん中を、そうでなければ廊下の端っこを下を向いて歩かなければならなかった。
制作部長と昼ごはんに行っても、ビール。勤務時間もいい加減なものだった。
映画の試写会があれば、「勉強」という名の下に会社をふけて、映画を観に行った。
先輩に誘われたら、17:00前でも雀荘へ。
本物のやくざかと思う様な服装のプロデューサーもいた。
でも、「モノづくり」の世界、とっても楽しくて、居心地が良かった。
「テレビ」が元気だった時代、だった。