オールナイトサブローシロー
僕が大阪本社の「制作部」にいた時代、先輩ディレクターが関西ローカルで、「オールナイト紳助」(読売テレビ・1984年頃)という番組をやった。深夜の3時間くらいの生放送。
四畳半くらいの広さの「ニューススタジオ」を借りて、島田紳助さんが1人MC。カメラはカメラマン無しの無人カメラが1台あるだけ。
カメラの映る範囲を変える為に、紳助さん本人が一度OA画面から外れて、カメラを操作しに行く。
企画として、僕が未だに憶えているのは、紳助さんの前に「毎日放送」「朝日放送」「関西テレビ」「テレビ大阪」のモニターがあって、「各局の放送終了の様子」を紳助さんが実況する事。
もちろん、各局の画面は紳助さんの方を向いていて、「読売テレビ」の放送画面には映らない。各局の「著作権」があるからだ。
後は「紳助さんがハガキを読むだけ」というラジオ的な番組だった。
この番組は視聴率も良く、内容的にも好評で、若手ディレクターの企画として成功を収めた。
次に一つ上の、別の先輩ディレクターが企画したのが大平サブロー・シローさんをMCにした深夜生放送番組「アイ・ラブ・サブローシロー」(1984年頃)
僕はこの番組で「フロアディレクター」を務めた。
長時間の生放送、番組の事前会議に僕も参加した。ディレクターに対して、いろんな企画を提案した。
「ハガキを読むだけ」とか、「◯◯するだけ」という番組作りは「ディレクターにとって、勇気がいる事」である。
それゆえ、「アイ・ラブ・サブローシロー」の放送内容は「制作側の企画」で埋め尽くされた。
自由に喋れての「長時間の深夜番組」。
生放送が始まると、「番組の進行」はギクシャクし始めた。
サブローシローさんの話がノリ始めると突然「制作の企画」が入る。
こんな状態が続いた。MCのお二人も困惑している。
多分、放送前にお二人とディレクターが綿密な打ち合わせをしていたら、こんな事にはならなかったのだろうが、「サブローシローさん、聞いて無いよ!」の世界である。
スタジオのフロアディレクターをやっている僕にも彼ら二人の気持ちが痛い程伝わって来る。
そんな折、居酒屋で飲んで来たらしい「制作部」の先輩が酔っ払って、生放送中のスタジオに乱入。
1台しか無いカメラをいじり始めた!(40年前、黎明期の「テレビ局」の雰囲気が濃厚に残っていた時の話です。今では絶対許されない事が起こってしまう時代だったのです)
必死で止める僕。番組の進行もしなければならない。
結局、大平シローさんが生放送中にキレた。翌日のスポーツ紙にもその事が載った。
僕はこの番組をやって、「MCとディレクターの意思の疎通がいかに大切か」を学んだ。
「ディレクターの思い」だけを「一方通行」で押し付けてはいけないと。
40年前の「深夜の生放送」の事を僕は一生忘れない。
大平シローさんは2012年、55歳の若さで永眠した。