花いちばん
朝の連続ドラマ第1作「花いちばん」(1986年4月〜9月)。月〜金25分✖️130本の多分、長さで言うと「ギネスブック」に載ってもおかしくない長さのドラマだ。
毎週、「2時間ドラマ」を1本強、8ヶ月の撮影で「2時間ドラマ」を26本以上を撮り上げていく膨大な量のドラマだったのである。
スタッフのほとんどが、大阪で17年ぶりの「ドラマ制作」である。各セクションの段取りも当然ではあるが拙い。撮影時間もかかる。
京都府の亀岡でクランクインして撮影、その後和歌山県の梅干しで有名な南部町にロケ隊は移動する事になった。大移動である。
スタッフのほとんどはロケバス始め、車両で移動する事になる。
しかし、ヒロインの池まり子さん、中村玉緒さん、南田洋子さん、大村崑さん、金田賢一さんほか俳優さん達は電車で移動する。
人手が足らないので、AP(アシスタントプロデューサー)の僕が俳優さんたちを列車で、亀岡から南部まで誘導する事になった。たった一人で。
山陰本線で京都駅まで出る。京都駅から新幹線で新大阪駅。
新大阪駅から天王寺駅まではタクシー2台に分乗して、スピード違反にならない範囲で思いっきりぶっ飛ばす。
天王寺駅発の特急「くろしお」の出発時間がギリギリなのである。
ドラマに参加するのが初めてなので、どの俳優さんを「グリーン車」に乗ってもらい、どの俳優さんを「普通車」に乗ってもらうか、かなり迷う。
全員の指定席も素早く取らなければならない。京都駅、天王寺駅で、俳優さん達をそれぞれの指定席に案内。
なおかつ、俳優さん達の昼食用の駅弁とお茶も両手に抱えきれないほど買う事も必要だ。
特急「くろしお」が紀伊田辺駅に到着した。
ここから、南部の国民宿舎まではまた2台のタクシーに分乗して、俳優さん達を連れて行く。
宿に着いたら、部屋割りだ。連日2〜3時間しか寝ていない僕。さすがにアタマがボーっとして来た。
現場でのクレームは全て、APの僕に来るからだ。
この国民宿舎には風呂付きの部屋が1部屋しか無い。
この部屋は封印する。俳優さんの誰かに振り分けると、他の俳優さんからクレームが出るからだ。
割り当てた部屋に入ってもらったら、俳優さんによって、反応が違った。
一般人が使う大浴場に堂々と入る人。
俳優なので、一般人に裸を見られる事を嫌がり、割り当てられた部屋でタオルをお湯に濡らして、体を拭く人。
それも嫌で隣町の紀伊田辺の風呂の付いているビジネスホテルに移りたいと訴える人。
俳優さんの反応に全て対応する。
そうこうしているうちに、ロケ隊が次々と国民宿舎に到着した。明日のロケの打ち合わせが深夜まで続く。いちばん遅く寝て、いちばん早く起きるのがAPの鉄則。
翌日も朝早くからのロケ。南部町の千里浜でのロケは思いの他、蒸し暑い。クラクラして来た。
僕の役目は俳優さんの撮影現場への送り迎え。普通は「製作部」(ロケを仕切るセクション)がやる事だが、何せ、人手が足りない。
南部町でのそんな状態のロケが続く3日目、僕は倒れ、紀伊田辺の病院に救急車で運ばれた。過労だった。
プロデューサーの判断で、僕はロケ現場を離れ、自宅に戻り、静養する事になった。
僕の乗った特急「くろしお」が撮影が行われている南部町の千里浜の横を通過する。
撮影隊がよく見えた。その時、僕は正直思った。
「これで、誰にも遠慮する事無く寝られる」と。
柔らかい布団に包まれて、ぬくぬくと何時間も寝ていたかった。そんな僕の思いを乗せて、特急「くろしお」は天王寺へと向かっていた。
そんな事があって、半月後、撮影現場に復帰した時、僕の考え方は変わっていた。
いろんな人からいろんな事を頼まれても、それに「重要度」の順番を付けて、その事を頼んで来た人全員にちゃんと説明するという事を心に誓った。
全てを引き受けてしまったら、また僕は潰れるという事を自覚出来る様になっていた。
この事が東京に出て来てからのドラマ作りにとっても役立った。
東京の様に「制作会社」に頼らない「局制作」を大阪の朝ドラで何度も経験した事が良かった。
その原点が朝の連続ドラマ第1作「花いちばん」にあった。僕のドラマ作りの出発点である。