梅渓通彦さん
「ミチヒコいる❓」
その大声の不躾な電話はいつも突然かかって来た。
国会議員の池坊安子さんからだ。
「ミチヒコ」とは先輩プロデューサーの梅渓通彦さんの事。
池坊安子さんは梅渓通彦さんの実の姉で、茶道の池坊専永さんの元妻。
1994年夏、僕は東京の「ドラマ班」に異動して来て、まずは鶴橋康夫監督演出の「寝たふりしてる男たち」という1995年1月連続ドラマに付いた。
続いて、同年7月ドラマ、三田佳子・久本雅美ダブル主演の「好きやねん」に梅渓通彦プロデューサーの「AP」として就く。
梅渓さんと二人で、脚本家の井沢満さんの御自宅に伺って、打ち合わせをして、ケイタリングの「中華料理」をご馳走になったものだ。
梅渓家は渋谷の松濤にあり、「元・子爵」だった。
梅渓さんも「皇位継承順位」の何番目かに当たると聞かされていた。
梅渓さんが「皇位」を継げば、「御璽玉印」が僕の判子が押された伝票に押されるのかなぁと想像したりして、不思議な思いに囚われた。
敏腕なテレビプロデューサーという感じはせず、梅渓さんはいつも優しく笑みを湛え、決して慌てて走る事は無かった。
これが「皇族」というものなのかと僕は思っていた。
一度、梅渓家に伺った事がある。
梅渓さんのお母さまと奥さん、そして白いワンピースを着た清楚な二人の娘さん。
家族なのに、お互い「敬語」で話され、食卓の中央に置かれた料理には全て「取り箸」が置かれていた。
お母さまが「昭和天皇」と親戚関係にあるとの事。
後年、お母さまが亡くなられた時、「天皇陛下」からのお供物が葬儀に届けられ、衆議院議長が参列された。
少し話は前に戻るが、僕が東京に移動して来る前、「木曜ゴールデンドラマ」が終わり、「ドラマシティ'92」が始まった。
その「第1作」をプロデュースしたのが梅渓さんだった。
人気絶頂の浅野ゆう子、山口智子、仙道敦子の3人が出演。
すごいキャスティングが出来たのは、梅渓さんの「人に対する温かさ」だったのかも知れない。
何故なら、梅渓さんは浅野ゆう子さんの旧知のマネージャーが郊外の病院に入院している事を聞き、わざわざお見舞いに行ったそうだ。
その事を恩義に感じたマネージャーが浅野ゆう子さん始め、同じ事務所の山口智子さん、仙道敦子さんの出演を決めたらしい。
東京での、僕のプロデューサーデビュー作「八月のラブソング」を一緒にプロデュースしてくれたのも梅渓さん。
加藤雅也さんのポスター撮影の為、ロサンゼルスに出張した僕は黒土三男さんとの脚本打ち合わせをしばらくの間、抜けなくてはならなかった。
帰国後、僕は梅渓さんに訊いた。
「脚本の上がりはどうでしたか❓」
「いいホンなんだけどねぇ・・・」
確かに「いいホン」だった。
でも・・・「ドラマチック」では無かった・・・と思う。
この時、梅渓さんはのちのち起こる事になる「脚本家の交代」をどこかで「予感」していたのかも知れない。
2002年、僕は「天国への階段」という連続ドラマのプロデューサーを任された。
そして、「うつ病」に罹った。
このドラマが僕の最後のプロデュース作品になる。
この時、梅渓通彦さんは「東京制作局長」になっていた。
ドラマが終了して、僕は梅渓さんに呼ばれた。
「関連会社の制作部長で、大阪に行かないか❓」
異動の打診だった。
梅渓さんは僕の事が愛おしかったのだと思う。
僕に「考える余地」を与えてくれた。
僕は梅渓さんに思いの丈を伝えた。
「僕は管理職には向いていません。しかも、『制作部長』という激務に今の僕の心は耐えられないと思います。僕は『文章を書く事』が好きです。可能なら、文章を書くことが出来る『東京宣伝部』に行かせてもらえませんか❓」
精一杯、梅渓さんに訴えた。
まるで甘えるかの様に。
あれから22年。僕は「東京宣伝部」で「番組宣伝」の仕事を続け、好きな文章を書き続けている。
梅渓さんと最後に会ったのは、「東京制作局長」から異動されて、大阪・千里中央にあった「よみうり文化ホール」におられた時の事。
僕にとって、「よみうり文化ホール」は「朝の連続ドラマ」の撮影で何年も通った思い出の場所。
大阪空港に向かう途中で電話して、居酒屋で梅渓さんと陽の高いうちから飲んだ。
二人で酔いしれた。
梅渓さんは「職場の女の子にいつも奢らなければならないのが大変なんだ」とおっしゃっていた。
数年前、まだコロナ禍だった頃、梅渓通彦さんの訃報を聞いた。
73歳、ガンだった。
誰に対しても変わらぬ愛を持って接した梅渓通彦さん。
出世にも疎く、不器用な人でもあった。
でも、でも、そんな梅渓さんが僕は大好きだった。
今でも、空の上から、僕たち後輩を温かく見守ってくれている様な気がする。
有難うございました、梅渓通彦さん‼️