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野崎優子

まだ、ウチのテレビ局が大阪市北区にあった頃、僕は「朝の連続ドラマ」のAPをやっていた。

今では考えられない話だが、月の残業時間が280時間超。

40日に一度くらいしか休みが無かった。

僕は常にふらふらな状態だった。

17年ぶりに大阪本社で作られる「朝の連続ドラマ」。

しかも「制作会社」に「制作協力」として入ってもらうのでは無く、「局制作」。

スタッフ誰もが「ドラマ制作」に慣れていない。

だから、APの僕が「俳優さんの東京から来るチケットの手配」「俳優さんの泊まるホテルの押さえ」「スタッフの夜食の買い出し」「台本の発送」「キャスト・スタッフの宅送(撮影が深夜になり、タクシーで送る事)」などなど、無限に湧いてくる仕事を1人でこなしていた。

上司のプロデューサーとAP、二人だけのプロデューサーチーム。

そんなある日、ぽかんと夕方から時間が空いた。もちろん、「撮休」の日である。

本社パーラーでお茶を飲んでくつろいでいると、同期入社の面々が通りがかる。

「一緒に飲みに行かないか❓」

そう誘われた。

僕も偶然、時間を持て余していたので、久しぶりに息抜きしようかと、付いて行く事に決めた。

これが「運命の出会い」を生む事になる。



みんなで向かったのが、大阪ミナミ、宗右衛門町にあった「ラウンジ千寿」。

宗右衛門町
大阪ミナミ

女の子もたくさんいるこの店でワイワイ飲み始めた。

でも、僕には気になる「女性」がいた。

身長180cmはゆうに超すラウンジ嬢。

この瞬間が僕と「優子」の出会いだった。

同期みんなが帰っても僕は「ラウンジ千寿」に居た。

正直、僕は「背の高い女性」にいつも恋をするのである。

一目惚れという奴だ。

僕も身長189cmあるから。

それからは忙しい撮影の合間を縫って、「千寿」に通い倒した。

僕と「優子」は「想い出のサンフランシスコ」という曲に乗って、「チークダンス」をするのが常だった。

「優子」の息遣いがぼくの耳に心地良かった。

どれほどのお金を注ぎ込んだろう。

「優子」とは気持ちが通じ合い、彼女も僕の事を好きになっていった。

お店は2階にあり、帰る時、「優子」が見送ってくれる。

お店のドアを閉めて、2階と1階の間で毎回キスをした。

誰にも見られない様にディープキスを。

しかし、彼女は「お店か終わる深夜、近くの喫茶店にいるからデートしよう」と誘っても来る事は一度も無かった。

「野崎優子」

通い始めて、数年が過ぎ、ある時、自宅に彼女から電話がかかって来た。

「渡したいものがある」と言う。

ちょうど、親も出かけていたので、最寄りの駅まで迎えに行き、彼女と自宅の僕の部屋でまったり。

彼女は紙袋から何かを取り出した。

それは彼女が初めて編んだ「ワイン色の手編みのセーター」だったのである。

嬉しかった、涙が出るほど嬉しかった。

そのセーターは「モモンガ」の様に、両腕の部分と胴体の部分がくっ付いていた。

でも、本当に嬉しかった。

今思えば、あの時、彼女と交わっていれば、僕の人生も変わったかも知れない。

でも、僕にとって彼女はあまりにも「神々しい存在」だったのだ。

触れてはいけない様な。

彼女から聞いた情報は少ない。

大阪・堺市の浜寺公園にお母さんと二人暮らししている事。

膵臓を少し病んでいる事。

誕生日が僕と同じ年。僕が2月27日で彼女が6月27日だという事。

そして、これはとても重要で、僕の心に深く残っている言葉を、大阪のお店で最後に会った時、彼女は僕に告げた。

「私は貴方と結婚出来ないんです。事情があって」

それは彼女が「差別されて来た人たちの一員」だった事を意味するのか❓

今となっては僕には分からない。

その後、1994年夏、僕は転勤で東京に出て来た。

一度だけ、「野崎優子」から僕の携帯に電話があった。

彼女はコロコロと転がる様な明るい声で、

「お元気にされてますか❓私はなんとか元気に生きています」

と言った。

その電話から四半世紀が経とうとしている。

生きていれば、僕と同い年。

僕のスマホには今でも「野崎優子」の電話番号とメールアドレスが残っている。

メールを送ってもエラーになる。
電話をしても誰も出ない。

彼女の携帯電話は「別の誰かが使っている」のか❓

男と言うのは、未練たらしい生き物だ。

未だに、Googleやfacebook、Xなどで「野崎優子」を検索してしまう。

彼女は僕にとって、「女神(ミューズ)」なのかも知れない。

「野崎優子」の存在を知っている人がいれば教えて欲しい。

会いたい・・・

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