社屋の変遷
僕が「よみうりテレビ」(当時はひらがな表記だった)に入社したのは、1983年(昭和58年)。
1958年に開局した当時の「大阪市北区東天満」にある社屋だった。
開局時、お寺の墓地を潰して半年間で建てられた社屋。
増築増築で社内は迷路の様に入り組んでいた。
スタジオは「第1スタジオ」「第2スタジオ」の2つ。「サブ」(副調整室・・・ディレクターがいて、指示を出すスタジオの上にあるスペース)は1つだった。
つまり、一度に「1つの番組しか収録(生放送)」出来ないのである。
「タレント控室」は僕の記憶では2つだったと思う。
「11PM」の司会・藤本義一さんは「メイク室」の化粧前に原稿用紙を広げて、モンブランの万年筆で原稿を書くか、社屋の隣にあったステーキハウス「ティジャ」でウィスキーの水割りをチーフ・プロデューサーと飲んでいた。
僕たち、「11PM」のADはその「ティジャ」までリハーサルの準備が出来ると、藤本義一さんを呼びに行っていた。
「11PM」は必ず「リハーサル」をしたが、後に付く事になる「EXテレビ」では「リハーサル」をやらなくなっていた。
入社当時、本社スタジオから生放送していたのは、「11PM」「2時のワイドショー」「おもしろサンデー」の3本。
そして、数年が経ち、社屋は京橋駅そばの「OBP(大阪ビジネスパーク)」に移転した。
この社屋には「スタジオ」が3つに「サブ」が3つ。
「11PM」「朝の連続ドラマ」「鶴瓶上岡パペポTV」「ざまぁKANKAN」「EXテレビ」などが収録・生放送されていた。
こちらの「タレント控室」の数は5つ。
「スタジオ」が3つで、この数では絶対足りない。
特に「ドラマ」を収録している際には。
そして、「ホテルニューオータニ大阪」の向かいに建つ現社屋。
「スタジオ」は3つで「サブ」が3つなのは変わらないが、「タレント控室」が20部屋ほどあるのは素晴らしい事だと思う。
もちろん、3つの社屋とも、「夕方のニュース」等で、報道が使う「ニューススタジオ」は1つ、別にあった。
「本社制作部」「東京制作部」合わせて、20年。
「東京宣伝部」に22年。
同期入社17人の中でも、これほど異動しなかったのは僕と、技術で「現場カメラマン」を未だにやっている同期だけだと思う。
来年、2025年3月末で、僕は「よみうりテレビ」を卒業する。
汐留の「日本テレビタワー」20階の「東京支社」に通うのも、あと、半年あまりである。
先月、「頸椎の手術」をして、1ヶ月入院。
病院の天井をベットに横になりながら見上げて、65歳からの「人生の再スタート」について考えた。
今までは「よみうりテレビ」というブランドに守られながら、生きてきたが、これからは僕自身の「氏名」を1つの「ブランド」にして、生きて行こうと決めた。
その為の「名刺」の発注も退院後、すぐに済ませた。
少しお金はかかるが、長年お仕事を御一緒したプロのデザイナーさんにお願いしている。
結構、細部に亘り、「僕のわがまま」を受け入れてもらったと思う。
印刷するのは取り敢えず、「500枚」。
新たな出会いを「500回」したいと言う願いを込めてである。
「何かをしなければならないという気持ち」に捉われず、自由に「遊び」と「余裕」と「影」を持って生きて行こう。
なんか、入院中からそんな事を考えていると、卒業後の人生が楽しみになって来た。