我が友・作田慎治
「作田慎治」。
僕はその名前を一生忘れないだろう。
神戸市の「六甲中学」に昭和47年4月に一緒に入学。
「英語」の担当の先生が「プログレス・イン・イングリッシュ(「イエズス会」系の多くの中学・高校で使われた教科書・・・「栄光学園」「広島学院」「海星女子」「福岡泰星」など)」の著者でもある「ロバート・M・フリン先生」だったのである。
中1でフリン先生が担任されたのが「中1B組」。
僕と作田はこの「中1B組」から一緒になった。
その「フリン先生」はバリバリのアメリカ人で、「六甲中学」の「バスケットボール部」の顧問だった。
なので、「我が35期」はこぞって、「バスケットボール部」に入部した。
その数、25人。学年全体で180人だから、当時最も「入部した35期」が多い部活だった。
僕も作田慎治も「バスケットボール部」に入部。
彼は「水を得た魚」の様に、コート上を走り回っていた。
作田は最初から「一軍」の「レギュラー」。僕は「五軍」の「補欠」だった。
この立ち位置は高校に入っても全く変わらない。
僕は「春休み」と「夏休み」にある「泊まりがけの合宿」も行ったり行かなかったりだったが、作田は本当に真面目に「バスケットボール」に打ち込んでいた。
「六甲高校」のキャプテンは作田慎治が3年間務めた。
彼と副キャプテンだった市田邦洋の家は尼崎市の塚口にあり、当時大阪府茨木市に住んでいた僕は「朝の通学電車」が二人といつも一緒だった。
「試験前」には参考書や教科書を車内で広げながら、「どこが試験に出るか❓」などと話したきおくがある。
また、高校2〜3年の夏休み、作田、市田と僕は偶然にも、「夏期講習」を受けに京都の「百万遍」に「仮校舎」があった「駿台予備校」に通っていた。
後で市田に聞いた話では、作田と二人で、「駿台予備校」の帰り、「京大」の「学食」でビールを飲んで酔っ払っていたとの事。
そして、「大学受験」。
僕も作田も「大阪大学経済学部」を受験。
二人とも「合格」した。
「合格」の報告をする為に、「六甲高校」の職員室を訪ねた時、偶然そこに作田が来ていた。
作田は僕に言った。
「おまえ、経済学部200人中、40位で合格してるぞ‼️おまえ、ホンマに賢いなぁー」
それが、「バスケットボール部」キャプテン・作田慎治に褒められた唯一の瞬間だった。
彼はその情報をどこから知ったのか、未だに分からない。
1978年4月、僕と作田慎治は阪急宝塚線「石橋(現・石橋阪大前)」で下車して、「阪大」に通う様になる。
作田は体育会の「バスケットボール部」に躊躇いもなく入部。
僕は「大学生活」を満喫したかったので、「バスケットボール愛好会『コンドル』」に入った。
副キャプテンだった市田邦洋は「京都大学」に合格。
作田慎治の強い勧めもあり、「京大」の「バスケットボール部」に入部する。
そして、二人とも、それぞれのチームで「キャプテン」になって行くのである。
僕と作田は同じ大学に通いながら、顔を合わす事も無く、4年間を過ごした。
そして、「就職」。
作田慎治と市田邦洋は同じ「神戸製鋼所」に入社。
「就職」以降も僕は作田慎治に会っていないし、連絡も取り合っていない。
「阪神淡路大震災」の前年の1994年夏、僕は人事異動で東京に転勤。
二人の距離はますます遠ざかってしまった。
「六甲高校」の「35期」。
64〜65歳。
この歳になって来ると、頻繁に「同窓会」が行なわれる。
しかし、20〜30代の頃はみんな忙しくて、「同窓会」どころではなかった。
そして、僕は生前の作田慎治に一度も会う事無く、彼の「訃報」を聞く事になる。
「脳腫瘍」の為、作田慎治は亡くなった。
享年52歳。
2012年の1月の事だった。
作田慎治の「Facebook」は今でも「インターネット上」に残っている。
そして、「作田慎治」の「想い出」も「僕たち35期」の「心の中」に永遠に残り続ける事だろう。
「キャプテン」として、温かく、天国から我々を守ってくれているに違いない。
亡くなったフリン先生と二人で「ワン・オン・ワン」をしてるのかも。