「市川崑」の助監督
テレビ番組「遠くへ行きたい」は1970年10月に放送がスタートしてから、今年で54年になろうとしている。
「TBS」の有志で作られた「日本で初めてのテレビ番組制作会社「テレビマンユニオン」が最初に請け負った番組が「遠くへ行きたい」。
スタート当初は「テレビマンユニオン」一社で制作されていたが、諸々の事情があって、月一度だけ、現在の「田園工房」が制作する事になった。
一説によると、「テレビマンユニオン」一社だけでは無く、別会社を入れる事で、「互いに切磋琢磨させようとする意図」が「読売テレビ」にあったとも聞く。
僕が「遠くへ行きたい」のプロデューサーをやっていた時、「ナレーション録り」に毎週立ち会っていた。
ディレクターが書き上げてきた「ナレーション」をチェックするのだ。
「田園工房」のディレクターは吉田一夫さん。
この人は「ナレーション」を書き過ぎるきらいがあった。
僕は「ナレーション」で説明し過ぎる事、「ナレーション」で伝えられる事の限界ゆえ、吉田さんが書いてきた原稿を毎回かなり削除した。
「ナレーション録り」が終わると、「テレビマンユニオン」の場合も「田園工房」の場合もスタッフで飲みに行く。
よく僕もその「飲み会」に参加した。
「田園工房」は代々木八幡駅そばにあり、駅近辺の居酒屋でよく飲んだ。
そこで、ディレクターの吉田一夫さんがあの名監督「市川崑」のチーフ助監督だという事を知る。
彼が「市川崑」に付いていたのは、若山富三郎主演の「実写版 火の鳥」の頃。
映画の「0号試写」。
つまり、完成した映画を初めて「関係者」が観る「試写会」。
試写が終わって、「試写室」が明るくなると、前列で観ていた「市川崑監督」立ち上がり、観ていた人々の意見を聞く。
もちろん、チーフ助監督の吉田一夫さんは大絶賛だ。
しかし、プロデューサーが一言、「市川崑監督」に対して、「ダメ出し」をした。
監督は一瞬黙り、そして、翌日から「再撮影」を始めた。
監督の意のままに、撮り直し始めたのだ。
その追加予算は「億単位」に上ったという。
巨匠「市川崑」にお願いした時点で、「完成した映画」に文句は言わない。それが鉄則だった。
「市川崑」は「アーティスト」なのだから。
市川雷蔵主演の「破戒」や「炎上」「東京オリンピック」を撮った名監督。
そのチーフ助監督を務めた吉田一夫さんの話はやたら面白かった。
ただ、「遠くへ行きたい」のディレクターとしての吉田一夫さん。
旅番組なのだから、普通のディレクターは「旅人」をある程度自由に「旅」させる。
その姿をカメラに収めていく。
しかし、市川崑の助監督をしていた吉田一夫さんは「撮影するカット」全てで、「ヨーイ‼️スタート‼️」と大声で掛け声をかける。
それが「情景」の収録であってもそれは変わらない。
吉田さん、超が付くほど真面目な人。
僕は「市川崑監督作品」が大好きだが、もちろん「市川崑」御本人に会った事は無い。
でも、「市川崑監督」の真横でずっと仕事をして来た吉田一夫さんと話ができた事は僕の大きな財産なのだ。