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手塚治虫さんのサイン


うちの貴重な家宝。

1985年3月21日(木)「11PM」の生放送終了後のメイク室で描いてもらった手塚治虫さんのサイン。
そして、手塚治虫さんの名刺。

初めて、ディレクターをした日のもの。

僕は高田馬場の「手塚プロダクション」での手塚治虫先生との打ち合わせ、「御自宅」に伺っての「手塚治虫先生の秘密部屋の撮影」、「宝塚」から「大阪ミナミ」に至るロケ、そして「生放送当日」の4日間、手塚治虫先生と行動を共にしている。

新人ディレクターだった僕にも手塚先生は分け隔てなく非常に優しく、いつも笑顔を浮かべて接して下さった。

どんなに疲れていてもそれは変わらなかった。

しかし、「手塚プロダクション」での「アシスタント」に対しての「漫画制作」のダメ出しになると、「鬼の目」になり、そこはプロとしての矜持を窺わせた。

冒頭に戻って、「11PM」の生放送が終わり、手塚治虫先生に御礼と御挨拶をする為にメイク室に入って行くと、そこには同期入社の諏訪道彦(後にアニメのプロデューサー。『名探偵コナン』『犬夜叉』『ブラックジャック』『金田一少年の事件簿』『結界師』などのアニメをプロデュース)が手に持ちきれないほどの「色紙」を持って立っていた。

本来、スタッフが出演者に「サイン」をもらう事は御法度なのだが、諏訪は手塚治虫先生が「憧れの存在」過ぎて、上司のプロデューサーに「サインしてもらうのがダメなら、僕はよみうりテレビを辞めてでもサインしてもらいます‼️」と宣言していた。

諏訪道彦が描いてもらった「ジャングル大帝」のサイン


手塚治虫先生はまず諏訪が差し出した色紙に「ジャングル大帝」の「レオ」を描いて下さった。

僕もこの機会を逃したら、一生後悔すると思い、諏訪から色紙をもらって、手塚キャラクターでいちばん好きで、僕にとって「理想の女性像」である「三つ目がとおる!」の「和登千代子」を手塚先生にリクエスト。

先生は15秒ほどで、何の下書きも無く、マジックでこのサインを描いて下さったのだ。

さらに、「11PM」木曜日担当の西村良雄プロデューサーがメイク室に入って来て、「今村は今日の番組でディレクターデビューしたんですよ」と発言すると、手塚治虫先生は僕が手に持っていた「11PM」の台本を突然取り上げて、その裏表紙に、あっという間に「火の鳥」を描いて下さったのであった。

「政治屋たち」の道具としてしか、「国民栄誉賞」を僕は思っていないが、長谷川町子を除き、偉大な、日本文化に貢献した漫画家たちが受賞出来ないのは、手塚治虫に「国民栄誉賞」が与えられなかったからだと、スワッチ(諏訪道彦)と僕は思っている。

1989年、同じ年に亡くなった「美空ひばり」は受賞しているのに、「漫画の神様」、「手塚治虫」も同等、いやそれ以上に評価されてもいいのでは無いだろうか?

それだけ、日本の「漫画界」「アニメ界」にとって、手塚治虫さんの存在は大きかった。


「三つ目がとおる!」和登千代子のサイン
「11PM」台本裏表紙に描かれた「火の鳥」と手塚治虫の「名刺」

僕と手塚治虫作品との出会いは高校時代まで遡る。

当時、創刊されたばかりの「小学館文庫から全3冊で、手塚治虫の「シュマリ」が出版された。

それを読んで、僕は手塚作品にハマって行く。

「朝日ソノラマ」から出ていた「火の鳥」を買い漁る。

また、夏休みの夏季講座で通った京都の駿台予備校の帰り道。

河原町通の本屋さんで、「大都社」刊行の「奇子」「ばるぼら」「きりひと讃歌」「一輝まんだら」などを買い求めた。

地獄の様な京都の夏。大学受験が迫ったあの日々を僕は手塚治虫にエネルギーをもらって、乗り超えたのである。

そして、よみうりテレビに入社。「11PM」に配属されて、ADを2年あまり続けた時、講談社の「手塚治虫全集」400冊発刊達成のパブリシティーとして、手塚治虫先生の出演が決まり、西村良雄プロデューサーから、前年1984年12月、ディレクターデビューの打診を受けた。

もちろん、手塚治虫先生をテーマに番組が作れるのだから、プレッシャーは感じたが、断るはずもなく、素晴らしい経験が出来た。

最後に手塚治虫先生が昭和20何4月、大阪ミナミの「松竹座」で観た「桃太郎 海の神兵」という日本のアニメーション映画を紹介しておこう。

この映画を観て、先生は「自分自身で、生涯に一本でいいから、アニメーションを作ろうと決めた」と番組のロケで証言されている。

また、余談だが、生放送のスタジオで、手塚治虫先生は司会の藤本義一さんに対して、「僕の初体験は『大阪の松島遊郭』なんです」と発言されている。

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