初めての海外旅行
「卒業旅行、一緒に行かへん?」
1982年正月明け。僕は大阪の大学の友人たちにこう誘われた。
彼らは4人で、大学生協主催のツアーに申し込んでいたのだが、そのうち1人が「会社の研修」が入り、行けなくなっていた。
ツアーの宿泊は全て「ツインルーム」。3人だと、誰か知らない学生と相部屋になる。
それを避けたいという事だった。
当時、就職浪人中で日々悶々と暮らしていた僕は親に相談した。ツアー料金は就職したら返済するから、ツアーに参加させてくれと。
親の承諾を得て行く事が決まった「卒業旅行」の概要は次の通り。
「エジプト・ヨーロッパ27日間の旅」。催行は「近畿日本ツーリスト」。
訪れる国は、
エジプト、
ギリシャ、
イタリア、
オーストリア、
西ドイツ(ドイツ連邦共和国)、
オランダ、
ベルギー、
ルクセンブルク、
フランス、
イギリス。
料金に入っているのは、
すべての飛行機代、大都市間移動のバス代、イタリア・ベネチアからオーストリア・ウィーンの寝台特急料金、すべての宿泊代、すべての朝食代(アメリカン・ブレックファースト・・・簡単な朝食)。
期間は2月半ばから3月半ばまでの27日間。成田から添乗員同行。
僕ら大学の同級生4人は大阪国際空港(当時)にツアーの出発日に集合した。
ここから、大阪勢は「英国航空001便」に乗って、成田へ。成田から東京勢が乗り込み、アラスカ・アンカレッジ経由(当時、共産主義の「ソ連」上空を「西側の航空機」は飛べなかった)、イギリス・ロンドン、ヒースロー国際空港へ。
ヒースローで、同じ「英国航空」のエジプト・カイロ行きに乗り換えて、ツアーは始まった。
カイロ空港で集まってみれば、22歳前後の東京・大阪の若者たちが40名弱と男性添乗員1人。
ツアーが国々を回って行くうちに分かった事が一つある。
関東の男子と関東の女子は朝食後から、「街歩き」も「買い物」も一緒。
僕たち関西の男子と女子は朝食後、夕食前の集合場所を決めて、男女で分かれる。
何故、分かれるかというと、男子と女子で行きたい場所が違うからである。
イタリアのローマでは、女子はグッチ、セリーヌ、ルイ・ビトンなどの店に行ってじっくり買い物がしたい。(1982年当時のブランド品は、日本で買うより格段に安く、日本より最新のものが買えた)
男子。僕たちは昼間はローマの駅へ行ったり、映画「ローマの休日」で出て来た「真実の口」を見たり、ローマ市内をバスに乗って駆け回っていた。
お互いを尊重し、お互いの時間ロスを避ける。この方法が関西人の僕らにとってベストだった。
関東の学生たちの行動が僕たち関西人には理解出来なかった。
夕食前に僕らは関西女子チームと合流。その日起こった事を肴に美味しいワインをグビグビと飲む。
そして、みんな大学4回生。27日も一緒に旅すれば、仲良くなる。
西ドイツ・ミュンヘン。
有名なビアホール「ホップブロイハウス」。
関西の学生みんなで出かけた。
大ジョッキが2リットルある。
500人を超えるドイツ人がひしめき合う様にテーブルに座り、ハムやソーセージを食べながら、大声で喋ったり、歌ったりしていた。
ドイツの高校生も大勢で肩を組みながら、ビールを飲んで歌っている。未成年でもビールはドイツ人にとって水代わり。だから、飲んでも許されるのだろう。
僕たちもドイツ人に負けない様に大声で歌った。
1982年、松田聖子の大ヒット曲「赤いスィートピー」。
「春色の汽車に乗って・・・」
しばらくして、僕はビールの飲み過ぎでトイレに行った。お腹を下していた。トイレは底冷えがして寒かった。
便座に座って、自分自身に語りかける様に、反戦歌「リリー・マルレーン」を小さな声で口ずさんだ。第二次世界大戦中、ドイツ軍・連合軍の両方の兵士が歌った歌。
ゆっくりと酔いがアタマに回って来ていた。僕は生きてて良かったと思った。
初めての海外旅行。見えて来たのは、「日本」という国だった。海外から見ると、「日本」のおかしなところ、不思議なところを知った気がした。
まだ、コロナもインターネットもスマホもメタバースも無い時代の話。