三つ子の魂百まで
僕は、いまは、割とあると思うのだが、産んでもらってからの、相当な時間、生きている現実感のようなものが、なかった。
普通、みんな学校に入学して、ある程度時間が経つと、人間は、この、学校の勉強の時代が終わると、普通社会人となり、自分でお金を稼ぎ、結婚して家庭を持ち、子供ができて親となり、その子供が自分のように、また親となり、自分もやがて、孫のいる、おじいちゃんと、なる。
みたいな、人間がこの世に現れてから、繰り返し、繰り返し、続いてきた人間の営み、歴史が、その営み、歴史の、当事者に自分もなる、という、現実感が、僕には、無かった。
いまは、昔よりましになったとは、思う。
それは、そのことに気がつき、自分で意識して生きてきた、結果なのかもしれない。
昔、長々と一緒に暮らしてくれた女性が、僕の実家に来た時、僕の母が彼女に、ほんとにこのひとでいいの?と、聞いた。
彼女は、
いいです。
と、言ってくれた。しかし、
僕は、この人と結婚して、僕も人間の営みを生きるのだ、という、現実感が、無かった。
彼女に、悪いことをした。
僕は、夢か、幻の、なかに、生きているような人間なのかも、
しれない。
ずっと昔、3歳ぐらいの記憶だ。
僕は、夜寝ようと、布団の中に入った。
眠りに落ちるまでのあいだ、こんなことを、思った。
現実というものは、自分の視界、世界、にしかなく、自分の視界、世界の、現実ですら、誰かの夢で、その夢をみている人が、夢から醒めたら、僕と、僕の視界、世界のすべての現実が、消えてしまう。
のだろう。
と、思った。
その思いに、囚われて、いた。
そんな、子供だった。
三つ子の魂百まで、というが、
本当は僕は、いまでも、3歳のまま、
なのかも、
しれない。
3歳の僕は、
いろいろ、虚しさを、感じて、
いたのかも、しれない。