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太宰治 に ついて
太宰治は、境界性パーソナリティ障害と、言われて、いる。
この障害者の中で、最も有名なひとの、一人かも、しれない。
僕も、境界性パーソナリティ障害、という診断を、受けている。
だから、かな?
太宰の小説を読んでいると、僕は、太宰に、僕と似たところがあるな、と、感じる、のだ。
もちろん、僕は、あんな天才な言葉は、紡げないのだけれど、も。
僕は、小さい子供の頃、孤独、だった。
独りぼっち、だった、のだ。
しかし、僕はその時、小さい子供だったから、自分自身が孤独なことに、気づいては、いなかった。
僕の母の実家は、商売を、していた。
僕の母は毎日、そこに、小さい僕を連れて手伝いに、行っていた。
じいちゃん、ばあちゃん、母で、毎日店を切り盛りして、いた。
僕が小学校に上がる、弟が生まれるまでの間、僕は、母の実家兼店の、茶の間とか、住まいのどこかの部屋とかで、ずっと、独りぼっちで、過ごした。
母の実家の店が、大繁盛していた、からだ。
みんな、店に手を取られて、いた。
みんな、家族と地域のひとのために、一生懸命、働いていた。
だから、
悪い人は、一人も、いない、のだ。
僕は、寂しい、という、自覚すら、無かった。
でも、自覚のないところで、小さい子供の頃の僕は、寂しかったのだと、思う。
こんな子供に、今の僕が出会ったら、いっつも暇人の僕だから、この子供と、一緒に遊びたいと、思う。
きっと、楽しいこと、だろう。
お互い、に。ね。
僕は、寂しくて、人の目を、引きたかった。
かまわれた、かった。
みんな愛されなくても、人が側に在るだけで、ちょっとは、安心するものではない、か?
ある時からの僕は、自分の寂しがりを、自覚するように、なった。
だけど、それまでの僕は、その、自覚は、無かった、のだ。
もともと、寂しがり屋の僕は、孤独に置かれ、寂しくて、人の気を引くために、人の顔色を伺うことに、一生懸命、だった。
やっぱり、僕は寂しいから、誰かに、側に在てほしかったし、愛されたかった、のだと、思う。
だけど、みんな僕を愛しているから、一生懸命に、働いた。
小さい子供の頃の僕は、それを、理解していた。
だから、悪い人は、一人も、いない、のだ。
元来、僕は、寂しがりな性格のうえに、独りぼっちで、寂しいから、それから逃れるために、人の気を引くことが必要で、そのために、いつも人の顔色を伺って、いた。
人の顔色をを伺うということは、ひとの、こころを、読む、という事だから、ひとのこころを、読むための、訓練、鍛える事に、小さい子供の頃の、僕の孤独は、繋がったのだと、思う。
人の、こころを読んで、顔色を伺って、太宰もそういう人間のような、気がする、のだ。
太宰も、とても、孤独で、とても、不安、だったのだと、僕は、思うのだ。
そういう感じが、太宰の紡いだ言葉には、すごくする。
ただ、僕と太宰が違うのは、天才と凡才、という違いと、僕が自分殺しに失敗した時に、僕は女を道連れにしなかった、ということ、だ。
僕は、太宰治、みたいでなくて、良かったと、思う。