東大生が19歳でうつ病になるまで 1
寒い冬の夜、ガラスのコップに水を汲みにキッチンに立つ。
ビニールの包装を開け、薬を手のひらに乗せて一気に口に入れ、水を含め勢いよく飲み込む。錠剤、カプセル全部で8粒あるが飲むのは慣れた。
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4種類8粒
1回に飲む薬が全部まとまって包装されているので便利だ。出かける時は1回分を欠かさず持ち歩かなければならない。
部屋の壁には、「お薬カレンダー」が掛かっている(おばあちゃんみたいだな)。週に1回訪問看護が来て、カレンダーを見て服薬できているかチェックしてくれる。
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私は現在、東京大学に通う3年生だ。
半年休学し、次の4月から復学する。
1年生の夏から精神科に通っていて、うつ病と診断されている。今は家の近所の精神科に2週間に1回行っているのと、1週間に1回訪問看護に来てもらっている。
なぜわざわざ大学名を明かすのか、タイトルに「東大生」と強調するのか、
実は重要なポイントではあるのでその話は後に述べることにする。
精神科に通い始めて、もう2年半になる。2度の入院を経験し、薬も増え、「立派な」うつ病患者になった。このあたりの話は過去のnoteを参照されたい。
19歳で生きることに限界を感じ、初めて精神科に行った。19年間の人生の蓄積がうつ病、すなわち無気力と希死念慮を最初に引き起こした。
今回は過去に遡って私のうつ病を作ったものたちを探るお話だ。
はじめに
ここからは私の生い立ちの話。頑張ってリアルに近づけたいが、暗い話が目立つ。家族の話が多くなる。
しかし、私は家族を責めたいわけではないとだけ言っておく(これ以上のことは言わない)。
他に何もなくて
とにかく努力家、秀才。小学校の頃から今まで周りからの評価は変わらない。
「小学生なのに、みみちゃん(筆者)は勉強以外の趣味とかが何もなさそうで心配だった。」
3つ上の私の兄の指摘は鋭かった。
他に楽しいこともなく、また何よりも勉強を優先して、大学に入るまでの19年間やってきた。そして大学に入り、一旦は勉強から解放された。しかし勉強しか取り柄のなかった私は生き方がわからなくなった。そしてじわじわと人生への絶望が始まった。
私のこれまでの人生と「勉強」(受験競争)は切っても切り離せない関係なのである。
5歳から競争へ
都心からは離れた東京23区外の地域で生まれた。今はもうすっかり住宅で埋め尽くされているが、私が生まれた頃は畑や栗林なんかもある、のどかな街だった。
私が最初に机に向かって勉強するようになったのは3歳から通っていた公文式、そして本格的には5歳から勉強を始めた小学校受験だろう。
幼稚園のお絵かきにも公文式で習った漢字を使う、生意気な子どもだった。
東京育ち、と聞くと都心(特に文京区など)は小学校受験、中学受験に教育ママたちが燃えるという話をよく聞くが、私の育った地域はそこまででもなかったはずだ。
それでも私が小学校受験をすることになったのは偶然だったのだろう。
母親がママ友に誘われて兄の小学校受験を志し、思いの外才能を発揮した兄を見て、妹の私にも期待したのだ。
頭の体操と、とにかくお行儀良く母親の言う通りにする、これらを守っただけなのでそこまで苦ではなく、私は4つの小学校に「全勝」して、国立の小学校に入った。この「全勝」が私のプライド、完璧主義の始まりである。
優等生の苦悩
国立の小学校は、多くの子が系列の中学校への内部進学を目指す、特殊な環境。私もその1人だった。内部進学を勝ち取るために、母親はさらに教育熱心になり、私もそれに応えて低学年の早い段階から「優等生」に出来上がっていった。
しかしそれは苦悩に満ちた日々となる。
『東大生が19歳でうつ病になるまで 2』に続く
次回予告
・学習塾での競争、いじめに耐えた小学校時代
・母親のうつ病の再発、祖父の死で少しずつ壊れていく家庭
・友達、出会いと別れ
ご覧いただきありがとうございます。