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ある新聞記者の歩み 37 地球を考える会で元東大総長に質問したこととは? ネット炎上も経験

元毎日新聞記者佐々木宏人さんのオーラルヒストリー37回目です。放送事業で苦労をしたあと、地球環境・エネルギー問題にかかわることになりました。記者時代にもっとも多く取り組んできた分野であるだけに、やりがいのある仕事でした。有馬朗人元東大総長と密に付き合う幸運にも恵まれ、気づいたら17年たっていたそうです。(聞き手:メディア研究者校條諭)


◆ハローワークに行ってみた

前回お話したように、メガポート放送はBS11によって吸収合併されました。とにかくなんとか会社清算の後始末のため、 2005(平成17)年に毎日新聞 東京本社の4階の入り口の手前の一室で毎日新聞メガポート放送対策室っていうのが作られ、室長となりました。部下は1人、給与は毎日新聞から出ていました。1年契約で再雇用されたってわけ。だから1年後の次の就職先を探さなきゃいけない。

Q.それが、「チャンネルJ」ですか。

そうなんだけども、その前に、ぼくは、昔の職安、なんだっけ?あ、そうそうハローワークに行ったんですよ。おもしろそうだから1回行ってみようと。やじ馬根性で(笑)。有楽町駅前の交通会館内にあるんですよね。でも世間的に自分の求人市場でのマーケット価値を知る事って必要じゃないですか。

行くとたくさん求職者が来ているんでビックりしましたがね。面接を受けると面接官が履歴書を見ながら「こういう人がいちばん難しいんですよ」って(笑)。中途半端な経歴じゃないですか、新聞記者なんて偉そうな顔して、途中から広告部門に行き、子会社の役員、それも潰れて、よく考えてみりゃ、経理や人事の専門家でもないし、採用側から見れば、使いにくいよね。なるほどね、そうか――と思いました。やっぱり世間常識から言えばそうなんだと、自分の“労働者としての価値”がわかりましたね。

だけど、一、二紹介されたところにせっかくだから行ったことがあるんです。それはね、業界紙みたいなところ。そうしたらね、毎日新聞のOBが1人、2人いるんですよ、そこに。「あれっ」とか言って(笑)。だけども、ぼくみたいに、局長だとかなんかまで やった人はいなかったけども。編集畑にいた人だとかとかで、皆自力で探してそういうところで働いてたんですね。なるほどなと思ったですがね。

でも今考えれば、経済部の先輩などの多くが大学教授や、大手業界の業界紙などの社長をやっている人も多いわけで、本当はそういう先輩に相談すればいいんだけど、何となく自分の弱みをさらすようで、自分のことは自分でやらなければという気分が強かったな。

◆元朝日名物記者がつくった国際インターネット放送に入社

そのあと、たまたま縁があってというか、入社時から仲の良かった毎日の同期生の社会部OBの園木宏志君に偶然会ったことがあって話をしていたら、「うちに来ないか?社長と相談してみるよ」っていうことになったんです。園木君は、東京都の副知事だったTさんの紹介で「チャンネルJ」っていうのに入っていたんですよ。Tさんは、園木君が都庁担当の時親しくしていた人です。

社会部一筋に生きた園木宏志さん

Q、都の副知事が園木さんを紹介したいきさつは何ですか?
どうも副知事のTさんは都議会公明党とのパイプが強かったようなんです。当時チャンネルJには、創価学会の部長クラスなどをやっていた幹部クラスだった人が2人もいました。チャンネルJの社長・佐田さんは朝日新聞政治部出身の人で、その関係で学会幹部とはパイプがあったと思います。そのつながりで園木君もT副知事から紹介され、2,3年前からチャンネルJに入社していたのでしょう。

園木君は、チャンネルJの若い社員が、レポーターの読み上げる原稿を書くとき、丁寧に指導していて慕われていました。ところが、肝臓がんになって、入院し会社も辞めたんです。それでぼくは、彼が面倒を見ていた若い女性社員2人と一緒に、2017(平成29)年の12月、園木君が入院していた横浜の病院に見舞いに行きました。夜でした。抗がん剤で頭の毛が抜けていてベッドに寝ていて、我々が声をかけても唸るだけで、会話が出来ませんでした。その翌日の朝、亡くなったという電話を受け、ショックでしたね。

Q.それはお気の毒でしたね。ところで、チャンネルJについてもう少し説明していただけませんか?

チャンネルJというのは、朝日新聞政治部で名物記者と言われた佐田正樹さんっていう人が、外務省と組んで日本の情報を世界に発信する、国際放送的なものをテレビやインターネットで流すということでスタートした会社なんです。社長なんだけど「代表」と言わせていましたね。東大でのサークルが空手部出身で片目が悪く“独眼竜”といわれていました。佐田さんは、政治部では田中派(田中角栄首相)、竹下派(竹下登首相)担当でした。ぼくも政治部時代に顏を知っていましたが、ぼくは中曽根派担当で直接話したことはありませんでした。園木君の紹介で、佐田さんと会ったわけですが、けっこうおもしろそうだと思いました。それでメガポート放送の会社清算事務を終えて、毎日新聞を退職後の2006(平成17)年4月に虎ノ門にあった同社に入社したわけです。

面接の際、佐田代表が「営業をやってくれるなら来てもいい」とのことでした。で、ぼくは広告局にいたから、電通・博報堂など広告代理店との付き合いもあり、広告集稿には自信がある―というような話をしたように思います。今考えればホラ話に近いですね(笑)。でも自信満々でしたよ。営業担当常務という肩書でした。

佐田さんは、新日本製鉄(現・日本製鉄)社長・会長をやり日本商工会議所会頭もされていた三村(明夫)さんなどと東大同期でした。九州の有名高校・福岡の修猷館の出身、財界、官界に顔が広かったですね。でもまあ一匹狼ですね。自分の人脈で三村さんなんかを中心に政財界を結びつけるみたいな商売をねらっていました。ネットに会社紹介を載せるとか株主総会の映像を撮るとかっていうような仕事をもらうっていうような話だったんだけど、でも今はトヨタ自動車の「トヨタイムズ」などを見ればわかるように、自社の技術で、企業内情報を社外、社内でネットで放映するのは常識。受注するのは、簡単ではなかったですよ。ぼくもいろいろと企画案を作りましたけどね。

スタート時点は、外務省の国際インターネット放送的な役割をするんだみたいなことで始まったんです。ぼくが行った時で人数は従業員は30人ぐらいだったかな。でも結局、うまくいかなくて佐田さんの人脈があって成り立っていた“個人商店”のような感じでしたね。彼はほぼぼくと同年で、晩年は難病になり、車いすで出社していましたが、去年亡くなって、会社も厳しい状態にあると聞いていました。

ぼくは佐田さんが亡くなってから間もなくの昨年(2023年8月)、ぼく自身病気のこともあり退職しました。会社はその後も、不振状態が続き、今年度中には会社を清算予定と聞いていますが。どうなんだろう。ぼくも国指定難病の遠位性ミオパチーで一時は社内に佐田さんとぼくと2人、車イス状態の社員がいたことになります。 

◆チャンネルJと関連NPO合わせて17年在籍

 Q.NPO法人ネットジャーナリスト協会ってなにをやっていたんですか?

ぼくは、後半はチャンネルJそのものではなくて、関連団体の「NPO法人ネットジャーナリスト協会」に移り事務局長という肩書をもらいました。この協会は同じビルの、同じフロア―にいたので、変わったという感じはしなかったですが‐‐。辞めるとき聞いたんですがチャンネルJ時代を含めて17年在籍していたということを聞いてビックリしました。

チャンネルJの発足間もない3年後、この協会は平成14(2002年2月)に監督官庁の都庁に「NPO法人」認可を受けています。官庁からの受注を受けるさい、公共事業などの大型案件は大企業でなくては無理ですが、インターネットでのホームページの作成、小型イベントなどについては、非営利組織(NPO法人)に委託するのが問題が起きる公算が少ない、ということでこのNPO法人の資格を取ったんだと思います。

確かにこの法人を通じて、総務省の“ふるさと創生事業”で地方自治体を表彰する事業の映像を取る事業などを受注していました。また私企業でやるには負担の重い、中学2年生を全国から40人集めて、富士山麓でノーベル賞学者などを呼んで1週間講義を行う「創造性の育成塾」などを色々やっています。

Q.チャンネルJにメリットはあるんですか?

それがあるんですよ。例えば総務省の“ふるさと創生”事業。ネットジャーナリスト協会が動画撮影をチャンネルJに任せて、その代価を協会から支払うというシステムになるわけです。「創造性の育成塾」も大手企業からの寄付金の中から授業内容の配信動画を配信します。でも基本的にはそんな大きな利益が出るわけではなく、大変だったと思いますよ。でも社会的な貢献度は高かったと思います。

こういうデジタルメディアの世界、技術の進歩が速くテクノロジーの変化に合わせた技術への投資など目まぐるしいわけで、これに対応しなくてはならないし、人材を投入しなくてはならない。この辺は前回話したメガポート放送でも共通するんだけど、日本の年功序列制のサラリーマン社会の中でどうしてもトップは、年寄りになってしまう。

チャンネルJでも創業者の佐田さんは自分のこれまでの人脈を生かして、ビジネスを展開しようと思っていたと思われます。しかし時代は“人脈”で動く世界ではなくなってきていたんですね。ぼくもその辺は、まったく“昭和高度成長世代”です。東日本大震災の原発事故後に作られた「エネルギー原子力・政策懇談会」のテーマとその運営に一生懸命のめり込んでいきました。

◆有馬朗人元東大総長に「ホントにノーベル賞候補なんですか?」と尋ねたら・・・


Q.以前、佐々木さんは、ネットジャーナリスト協会と有馬朗人元東大総長との強いつながりを話されていましたが、どういうつながりだったんですか?

元東大総長有馬朗人氏(1930年-2020年)

ぼくは有馬先生を、毎日新聞広告局長時代の1990年代後半から存じ上げていたんです。広告局のイベントで、たしか電通からの企画持ち込みで、ノーベル物理学賞の受賞者を米国から日本に呼んで、シンポジウムをやろうということになりました。当時、有馬先生は東大総長を退かれ、理化学研究所の理事長(1993~98年)だったと思います。イベントの仕切りは、ご自身も次のノーベル賞の有力候補といわれていた有馬先生しかないな、ということになり何回か埼玉県和光市の理研の理事長室に通い、打ち合わせをしました。

その一方で俳句の世界では俳句結社「天為」を主催され「日本の俳人100」に選ばれた事もあります。東大俳句会に属していた当時、代表句
  「二兎を追ふほかなし酷寒の水を飲み」
は原子力物理学者と俳人の二股を歩む自分の姿を描いたものですが、指導者の俳人・山口青邨は、「朗人君は出句しておいて、隣室で卓上計算機をガラガラ回していた」。

ガチガチの原子力物理学者と思っていたんですけど、人柄が科学者特有のギスギスしたところがなく、ソフトで視野が広くていいんだなあ。やはり俳人として普通の人との付き合いが広いから、頓珍漢なことを聞いても、ニコニコして、「そんなことも知らないのか!」という人を見下すこともなかったですよ。

そのころ先生は、毎年ノーベル賞候補の時期が近づくと、新聞で有力候補として騒がれていました。シンポジウムの進め方の打ち合わせのため、電通の営業マンも加わった3人の銀座での会食会で、ぼくは「先生はホントに次はノーベル賞候補なんですか?」聞いたんですよ(笑)。よく聞くよネ(笑)。そうしたら「ウーン、次はアメリカの○○、その次はフランスの○○、まあその次かな⋯⋯⋯」って正直なんだよね。

その後も竹橋の科学技術館館長などをされていたのですが、ぼくがチャンネルJに入ったら、佐田代表とも知り合いとわかりました。確かネットジャーナリスト協会の会長も引き受けられており、小中学生の理科教育を推進するための「育成塾」の塾長をやっておられたと思います。以前から存じ上げていたし、エネルギー問題、原子力発電問題などに関心があったので、なんとなくぼくが有馬先生担当のようになりました。

Q.資料を見ると、有馬先生は、2022年12月7日、90才で心不全で急逝されましたが、NPO法人としては影響は大変だったですか。

ホントそうでした。NPO法人ネットジャーナリスト協会の事業において、有馬先生をトップに頂くのは、寄付、協賛金などを出す側の安心感があります。また50人近い各界の参加者も「有馬先生なら⋯⋯」ということでしたから、先生亡きあと事業全体がガタガタになってきたことは否定できないですね。

先生は「エネルギー原子力・政策懇談会」の朝八時からの会合に一度も欠席することなく、そのためかほとんどの有力メンバーも出席を最優先されていました。その存在はこの会の重石(おもし)のようになっていたと思います。それだけに先生の突然の死去は、この懇談会の浮沈にかかわってきました。ぼくも80才を越えてヤメ時かなという感じになってきました。

とにかく世間的には有馬先生は、理研理事長の後、文部大臣、初代の静岡文化芸術大学の学長などを歴任され、色々な分野で有馬先生の存在は大きかったと思います。それと日本の科学技術の世界では、科学技術庁の傘下の、理化学研究所などの人事などについては、有馬先生への了解が必要という感じでしたね。

◆「地球を考える会」発足

Q.資料を見ると「エネルギー原子力・政策懇談会」の前に「ネットジャーナリスト協会」で「地球を考える会」というエネルギー問題の勉強会を、有馬先生が座長でやっていますね

これは1997年に京都での国連気候変動枠組条約(UNFCCC)の会議が開かれ、地球温暖化阻止のため各国が温暖化防止策―産業革命前からの世界の平均気温上昇を「2度未満」に抑えることに加えて平均気温上昇「1.5度未満」を目指す(第2条1項)が合意されました。 人々は節電などに気を付けて生活し、温暖化につながる行為は極力しないようにし温暖化を止めるように、団体や学校で進める――という「エネルギーと環境の調和・低炭素社会を世界的に実現していかなくてはならない、という意識が急速に世界的に高まってきました。

有馬先生も「日本も率先して温暖化対策を推進しなくては」と大変危機感を持たれていました。そこで広い視野を持つエネルギー専門家、学者、産業界、マスコミ界などの20人に呼び掛けて「地球を考える会」を作りました。そして2ヶ月に一度会合を開き、各界の専門家の話を聞いて、2008年5月に「提言 エネルギーと環境の調和・低炭素社会の実現に向けて」を作成し、当時の福田康夫首相に官邸で面会、ぼくも同席しましたが、有馬会長とメンバーの白井哲彦早稲田大学総長、フジテレビの日枝久会長らが、直接手渡しました。

当時世界的に「温暖化防止・脱酸素のためには原子力発電の建設が必要」という“原子力ルネッサンス”という言葉が使われたりする、原子力発電ブームが来つつありました。「提言」はこの動きをバックアップしていこうという狙いがあったことは事実です。3・11の福島原発事故でこの言葉は消えてしまいましたが‐‐‐。

「このメンバーで全国を回り国民に訴えよう」ということで、フジテレビの日枝久会長の斡旋もあり、司会者に小泉進次郎さんの奥さんになったフジテレビのアナウンサーの滝川クリステルさんや、当時人気の高かったフジテレビのアナウンサー・アヤパンこと高島彩さんなどを司会者に起用したりして各地を回りました。滝川クリステルはホントきれいだったなあ(笑)。この会議の内容を掲載した全面広告を毎日新聞に掲載(2009年11月)に出したりしました。

地球を考える会フォーラムの記録紙面(2009年11月)

Q.費用はどうされたんですか?
東京電力を中心に電力各社、三菱重工、日立製作所など大手製造業各社、商社などが応援してくれていたと思いますメンバーは約二十人に限定されていて、議論が面白かったですね。各界の有馬先生ご指名の人材で、京都大学総長の地震学の権威・尾池和夫、地球環境学の茅陽一、今売り出し中の経済学者・白井聡京都精華大学教授のオヤジさんで早大の総長、知能情報学の白井克彦、慶応の環境経済学の和気洋子、読売新聞の滝鼻卓雄東京本社会長フジテレビの日枝久会長らが参加されました。「有馬先生があれだけ頑張っておられるんだから、われわれもバックアップしなくては⋯⋯⋯」という声をいろんな方から聞きました。人望があったんですよね。

◆3・11原発事故後に「エネルギー・原子力政策懇談会」発足


Q.3・11の東日本大震災・福島原発事故で大変な2011年4月に「エネルギー・原子力政策懇談会」がスタートしたと聞いていますが、「地球を考える会」はどうだったんですか?

いやあ、大変でした。
「地球を考える会」のメンバーを増やし、エネルギー問題の積極的解決のために、参加メンバーの数も増やした上で「地球を考える会」を発展的に解消して、仮称「原子力ルネッサンス推進会議」を作ろうというムードも高まってきました。この“原子力ルネッサンス”という言葉は世界的に使われるようになってきていました。

大震災の前ごろから何度も有馬先生と打ち合わせをしました。「やろう、やろう」と有馬先生も大乗り気でした。有馬先生を会長に、今井敬新日鉄住金会長・前経団連会長に座長を務めてもらうことも決めました。

先般(2024年10月)84歳で亡くなられた東京電力の勝俣恒久電力会長には、佐田代表といっしょに会長室で会いました。9電力の出資額をエンピツなめなめ出資金額を決めた姿も忘れられません。こうして大震災が起きる寸前の2011年2月中旬に参加メンバーも「地球を考える会」の倍以上の50人程度も決まり、2月14日だったか、顔合わせ会をやり、会の名称も「原子力ルネッサンス推進懇談会」に決めて、3月末に第一回のスタートアップさせようと動き出しました。その講師には当時国際原子力機構(IAEA)の事務局長だった田中伸男さんを呼ぼうということで了解も取りました。

Q.そこに3・11の大地震、それは何とも間が悪い!

ホントにビックリ!原子力推進どころではないよね。原発事故の直後だけに「原子力ルネッサンス推進懇談会」という名前でやるわけにいかない―ということで何回か会議を開き「エネルギー・原子力政策懇談会」という名前に変更しました。たしか4月に第1回を六本木の赤坂アークヒルズの最上階の会議室で開きました。

当初予定していたIAEAの田中伸男さんの予定を急遽キャンセルして、原発事故の処理当事者である三又裕生原子力政策課長(現パナソニック総研理事長)と、望月晴文前経産省次官(現日本電気取締役)をお招きして、福島の事故の現状と今後の展望などについて聞く会にしてスタートしました。その時はメンバーの50人全員が出席されたように思います。

Q.やはり皆さんは緊張されていたんでしょうね。

そりゃそうですよ。津波の方は山を越えたかもしれないですが、まだ原子炉自体がどうなるのか分からないんだから⋯⋯⋯。開会の挨拶で有馬先生が「(今回の事故は)まことに残念。しかし無資源国・日本の原発を0(ゼロ)にするわけにはいかない」と本当に悔しそうな表情で述べられたことを憶えています。有馬先生は原子物理学者として、信念をもって原発開発を推進されてこられただけに、悔しかったでしょうね。

だけどこの会を作るにあたって3・11事故の前、東電の最高幹部と話していて、「東電の技術力は大丈夫、心配ないけど地方の電力会社の原発が心配、万一、事故を起こせば世界的に“原子力ルネッサンス”なんて吹き飛んじゃうよ、こういう会で地方電力の幹部にしっかい勉強してもらはないと」なんていっていたなんですから。

でもこの会で、一年後かな、全身に放射線予防の防護服、線量計をつけて福島原発の見学会に行ったり、 南海トラフ大地震に備えて高い防護壁を作った中部電力の浜岡原発に行ったりとか、青森・大間の原燃、プルトニウム再処理施設やなんかを見に行ったりしました。

特に今戦火のウクライナのキエフ郊外にある、1986(昭和61)年事故を起こしたチェルノブイリ原発も2012(平成24)年7月、視察しました。事故後26年、放置されたままの、3万人住んでいた原子力技術者の町プリピチャ市で、記念に石ころを拾ったら、ガイドに「放射能が残っているいるからダメです」と注意されました。本当に勉強になったなあ。

チェルノブイリ視察(2012年)


ぼくは事故を起こしても、無資源国日本にとって経済を支えるには、安くて、使いまわしのできる原子力発電は安全基準を厳しくして、必要だと思っているんですが⋯⋯。

この「エネルギー・原子力政策懇談会」は、会として60回以上会合を開いてきています。この間、原子力発電の今後の在り方について、数回、官邸、経産省などに提言を出したりしました。ぼくは、経済部記者時代はエネルギー担当が長かったから、エネルギー問題は、ライフワークでもないけども、ずっと興味持っていたんですよ。だけど、 反原発じゃなくて、原子力発電っていうのは、CO2削減などに必要だというポジションでやってるので、いろいろ批判を浴びるんですけどね。

◆「原子力推進」の提言で“炎上”


Q.「エネルギー・原子力政策懇談会」は、2年後の2013(平成25)年2月に、当時の安倍首相に「提言 責任ある原子力政策の再構築―原子力から逃げず正面から向き合う」を出されて、今で言うなら“大炎上”して大騒ぎになったと聞いています。当時、世論は反原発で、「太陽光など自然エネルギーで日本は行くべきだ」という感じでしたが、有馬先生も“勇気”ありますね。

当時「地球を考える会」から名前を変え、メンバーも一挙に50人位になった「エネルギー・原子力政策懇談会」は、原子力工学、放射線学、地震学者、エネルギー専門家等を呼んで、3・11後の日本のエネルギー情勢がどうなるか、月に一度かな、話を聞きました。朝8時から10時まで、みっちりクールな議論をかわしました。それで「このままでは日本の原子力はダメになるし、無資源国日本は、大変なことになる」という危機感をメンバーが共有しこの「提言」になったわけです。

Q.なぜ“炎上”したんですか?

何たって朝日新聞のトップ記事(2013年5月19日付け)が原因です。朝日の記事、首相に出した提言は「経済産業省エネルギー庁の役人が関与している。経産省が3・11後の原子力政策の在り方を民間の組織を使って作らせたものだ」と指摘したわけ。その頃、全国23ヶ所の原子力発電所は原子力規制委員会の安全性が確認されるまで、運転は中止させられていましたから、当方の「提言」はこれに異を唱えるものだ―と経産省が言いたいことを、民間に言わせたというスタンスの記事だったと思います。

Q.それは事実ですか?

詰めなさんな(笑)。確かに望月晴文前次官などと、事務局(といってもぼくですが)が相談して文案を作り、有馬先生にも相談し、資源エネルギー庁の原子力担当者と話し合って出来上がったことは否定しません。どうも当方と経産省のやり取りのメールが経産省内部からリークされたようです。国会でも社民党の福島瑞穂議員が質問に立ち、各新聞社、テレビ局が虎ノ門の会社に押しかけてきて大変。

ぼくの家にはテレビ朝日が“夜討ち”までしかけてきてカメラを回すのには参りました。2、3日、阿佐ヶ谷のホテルに“逃避行”しました。でもテレビ朝日の「報道ステーション」にはでましたよ。自宅に帰宅したさいの玄関先での映像がバッチリ出ました。

Q.なるほど、“炎上効果“ですね(笑)。

そうなんですよ(笑)。ネットでもかなりのあいだ、「佐々木宏人 毎日新聞 原子力」で検索すると各社の記事がでてました(笑)。なかには書き込みで「毎日新聞で稼いで、原子力の闇でも稼いでる佐々木宏人」とか書かれて・・・。毎日新聞で稼いでないよなと思ったんだけど(笑)。

Q.ちょっと貯金通知を見ろって(大笑)。夜討ち朝駆けかけられて。立場が逆転ですね(笑)。
 
そうそう、だから、 そのころ友達かなんかと会ったとき、向こうからテレビで見たとは言わないんだけど見てるんですよ。「なんかお前、そういえば、明日にでも逮捕されるみたいだったな」とか(笑)・・・。

このため当時「エネルギー・原子力政策懇談会」の動画議事録を「ネットジャーナリスト協会」のホームページにアップしていたんですけど、この事件があってからやめました。そのホームページ自体もカットしていました。まあ当時は、原発周辺の16万人もの住民が避難していたんですから大変でしたよね。現在は止まっていた原発も原子力規制委員会の規制強化をクリアして動き出し、少しずつ変化してきていると思いますが、当時は本当にセンシティブな問題だったと思います。「エネルギー・原子力政策懇談会」は、昨年8月まで、60数回は開催しました。毎回、40人以上参加し本当に皆さん熱心でしたね。
 
Qネットジャーナリスト協会その後―佐々木さんは、今は協会を辞められているのですね。

そう、有馬先生、佐田代表が相次いで亡くなり、ぼくも30万人に1人という全国に400人しかいない「遠位性ミオパチー」というALSと似て筋疾患で手足が動かなくなっていく国指定難病の病気が進行して車いすになりました。とてもじゃないが「エネルギー・原子力政策懇談会」の事務局を担当していくのが体力的に無理になりました。

協会では、週三回出勤でした。でもけっこう事務量があるんですよ、メンバーは忙しい方々が多いので日程調整が大変、テーマの選定、最終的なメンバーの出欠の確認、会場の確認。そこで去年(2023年10月)に思いきって辞めました。辞めた時、世話になったチャンネルJ総務担当の女性のKさんから「佐々木さん、チャンネルJとネットジャーナリスト協会合わせて17間在籍されたんですよ」といわれてビックリしたなあ(笑)。

Q.現在は「エネルギー・原子力政策懇談会」はどうなっているんですか。

有馬先生、佐田代表が亡くなり、事務局長の佐々木も車イス状態で、運営主体となることは無理と判断。いろいろ、後継してくれるところも模索したのですが、上手くいかず、解散ということになりました。

◆若い社員に教わってパソコン習得


Q.17年間ふりかえってどうですか。

でも楽しかったなあ。日本のトップクラスの先生方との付き合い。えがたいもんでした。

それとなんていうかな、チャンネルJ自体は、若い真面目な人が多かったんです。「エネルギー・原子力政策懇談会」はチャンネルJと事実上一体化していましたから。チャンネルJの若手社員が気持ちよく助けてくれるんですよ。それでね、ぼくにとっていちばんよかったと思うのはね、パソコン操作とかなんかっていうのをね、何でも聞ける人がそばにいたっていうことがすごく大きかったんですよ。

Q.それはいい環境ですね。リタイアした方、皆さん個人でやんなくちゃいけないから。秘書とか部下にまかせていた人で、リタイア後苦労している人が多いですね。

同期の連中と話してると、最近の親子喧嘩の発端ってのは大体これなんだよね(笑)。息子だとか娘なんかに教わるんだけども、「この前それ教えたばっかりじゃないの」とか言われて、「わかんないから聞いてんだ」とかなんとか、言い返して喧嘩になり「一カ月、口きいていないんだ」なんて(笑)。

でも会社ではぼくも一応、年長者じゃないの。「これはこうなんですよね。こうやって消すといいですよ」とかなんとか言って、丁寧に対応してくれるわけだ。仕事の一環としてパソコン操作を教えてもらったから、こうやってZoomだとかFacebookなんかっていうのも、抵抗なくできるのは本当にありがたいですよ。そのパソコンも最近は遠位性ミオパチーの病気が進んで、手先の動きが満足に動かせなくなってきてるんだなあ。パソコンも一苦労です。ぼくも今年(2024年)9月で83才ですから。

Q.17年間おられて個人的によかったことはなんですか?

まあ、新聞社と違って勤務時間が朝10時から夕方6時まで、有休も取れ、暦通り連休も休めるという事で、普通のサラリーマン生活を堪能したことかな。給料もそこそこもらえて、その落ち着いた生活のお陰で、大学当時からカトリックだった女房と話し合って、2006年4月にカトリック荻窪教会で洗礼を受けたことは大きかったですね。

それがきっかけとなって、終戦3日後の1945(昭和20)年8月18日、横浜の保土ヶ谷教会で射殺された戸田帯刀神父の事件を追いかけることになり、全国、北は北海道から、南は九州まで取材に赴いたり、関係書籍を購入したりして、上下巻のノンフィクション(『封印された殉教』フリープレス社刊)を2018(平成30)年に出版することもできました。でも、ホント取材費用が掛かりましたから、今となれば老後資金をチャンと残しておけばよかったと、後悔する部分もありますがね(笑)

でもぼくの晩年の生き方を決めてくれた17年間とも言えます。感謝しかないな。

最後に有馬先生の俳句でぼくの好きな二句に託して、17年間を振り返っておきましょう。
「やがてくる者に晩秋の椅子一つ」
「歩むべし復活祭の海平ら」

(第37回完)