ある新聞記者の歩み 16 外交のおもしろさ実感 カップ麺で空腹しのいで原稿打電もよき思い出
元毎日新聞記者の佐々木さんのオーラルヒストリー第16回です。前回は、大蔵省より実は人気だったという自治省の担当時代について聞きました。今回は政治部生活の終盤、外務省担当になった短い期間の体験談であり、外交のなまなましい現場を見た貴重な証言を話していただきました。秘書官として首相を補佐する官僚の人間性にも強く印象に残ったようです。(聞き手--校條諭・メディア研究者)
◇第2次石油ショックの記憶無し
Q.まずは、政治部で自治省担当の頃の続きから伺います。
政治部にいた時期、第2次石油ショックというのが1979(昭和54)年にありますね。これはイランのパーレビ国王の王政が1月につぶれてホメイニ師のイスラム革命体制になって、OPEC(石油輸出国機構)が原油値上げに走ります。値上げ幅は14.5%に止まり、第一次石油危機ほど日本経済・世界経済的には大きな影響はなかったと思いますが、これを機に高度成長が完全に終焉したと言われるわけです。経済部的には大ニュースだったと思います。
そのときにぼくは自民党を担当していたのですが、実は第2次石油ショックの記憶ってまったくないんです。物価が上がって困ったとか、経済がどうなったとかという実感がないんです。日銀の金融引き締め、労使協調の賃上げの抑え込み、円高による輸入価格の抑制など、経済界はそれなりに大変だったと思います。
政治家の頭の中にはそれがあったはずですが⋯⋯。でも政治部記者はその辺は敏感ではないんですね。だってその前年の12月には、熾烈な党内抗争で福田赳夫首相が辞任、大平正芳首相が誕生するという局面ですから、息を抜けない政局情勢、経済状況に目をこらすヒマはない。この辺の空気感が政治記者と、経済記者とは違うということです。
ぼくの場合、経済部に戻って、「第2次石油ショックというのがあったんだなあ」と同僚記者や取材先に当時の体験を聞いて改めて思いました。政治部だと、それほど経済情勢には関心がないのですね。特に当時は政治がとんでもなく動いていた時代でしたからね。
◇大平・福田決選投票で解散へ
Q.政治部で出会ったドラマをさらに伺います。
この連載の15回目にも書きましたが、その年の10月の総選挙で自民党が過半数割れとなって、福田さんが大平首相の責任追及をして、いわゆる “40日抗争”が起きるんですね。大平・福田が衆参両院で同じ自民党同士で決選投票やるんですが、まさに大福戦争、そのときぼくは議場の記者席にいて現場を見てるんです。しかし福田さんが負けました。
かれは前からこの間、“天の声”という言葉を使って記者を煙に巻いていたんです。その敗北会見でガックリ肩を落として「天の声もときには変な声もある」と言いました。それは自民党本部での記者会見のことで、それにもぼくは出ていました。政権奪取抗争の凄まじさを実感しましたね。
そのあと5月に、内閣不信任案が大平さんに出されて、自民党の福田派を中心に主流派が欠席しました。衆議院のホールというのがあるんですが、主流派百何十人かがそこにとどまったまま議場に行かなかったのです。それで結局不信任案が通っちゃうんです。
結果として、6月末に戦後初の衆参ダブル選挙になりました。その前年の10月総選挙をやったばかり、わずか8ヶ月に満たないで選挙、いかに政局が激動の中にあったかが分かると思います。
こっちはそれで「解散!選挙だ!」と高揚してしまいました。
◇首相秘書官の涙、新聞記者の高揚感
その解散決定、総選挙というとき、福川伸次さんと偶然衆院の車寄せで出会いました。福川さんはぼくが経済部で第一次石油ショックの時の通産省担当時代に“通産省の知恵袋”といわれた官房企画室長当時から、親しくさせてもらった人で、後に通産次官になる人です。
福川さんはその時、大平首相秘書官で、安倍首相当時の今井秘書官のような立場だったと思います。今井さんのようにアクの強い人ではなく、誠実な知識人というタイプでしたね。不信任案が成立して大平首相を首相官邸まで帰る車を送っているところでした。秘書官だった福川さんに「いよいよ解散ですね」と当方が嬉しそうに言ったら、福川さんがなんと目を真っ赤にして泣いているんです。
なるほど現場にいて首相を支えて苦悩する首相の姿を目にしている人と、われわれ野次馬・ジャーナリストとは違うもんだなあと、感じたものです。当事者と、われわれとの距離というものをしみじみ感じました。その後、経済部に戻ってから福川さんに会合で会って、「あの時、福川さんは泣いていましたよね」といったら「そうだったかな」とトボケられましたけどね(笑)。
大平さんは本当に福川さんを信頼していたんですね。ぼくは大平さんというのは、読書量もすごく抱負で経綸の才があり、戦後の歴代の首相の中でも立派な人だったと思います。そういう人が政争の中で引きずり下ろされるというのは、福川さんにとって、日本のためにはどうなるんだろうという感じがあったのでしょうね。
結果として一月後、大平首相はこの選挙中に突然死するんですね。スゴイ心労だったんでしょうね。われわれは「政治家はタフだな―」の一言でかたづけていましが⋯⋯。本当に命がけの抗争なんですよね。
太平さんが亡くなって自民党が大勝利して、大平派の大番頭格の農政通だった鈴木善幸さんが首相になりました。当時海外メディアからは「ゼンコウ、Who?」といわれるほど対外的には知名度はなかった人でした。
◇誰が日本の外交のウォッチするのか?!
こういう政局を背景に1980(昭和55)年春ころだと思いますが、外務省担当になっていたのです。政治部の官庁担当というのはあいまいなところがあって、解散になると役所を引き上げて本社の選挙班に入っちゃったり、元々の派閥の担当にもどり国会にかけつけるとかという感じになってしまいます。この辺は経済部と違いますね。
各社の霞クラブ(外務省)へ政治部デスクから「平河クラブ(自民党担当)に集まれ、内閣不信任案が通過、解散だ“選挙体制”に入る」と電話がかかってきて、みんな手伝いに来いって言われます。すると、ハーメルンの笛吹き男じゃないけど、他社の政治部記者もみんな一斉に飛び出て行っちゃいます。政治記者としては血湧き肉躍るという感じです。それで残るは外務省担当の経済部記者だけになってしまいうわけです。霞クラブはガランとします。
当時、外務省には外務報道官の下に国内報道を担当する、「報道課」というのがありました。阿南惟茂(あなみこれしげ)さんが主席事務官だった思います。終戦直後に陸軍大臣として自刃した有名な阿南惟機(これちか)大将の五男。いわゆるチャイナスクール(中国語担当)出身で、その後2001~6年まで中国大使になられました。余談ですが、息子さん(注:阿南友亮(ゆうすけ))は東北大の教授で「中国はなぜ軍拡を続けるのか」という本を数年前に新潮選書から出した若手の中国政治研究者です。
その阿南さんが、多くの記者が出ていって、ガランとなりつつある霞クラブの様子を見ながら、「誰が日本の外交のウォッチングをするんですか?!」と叫んでいたのを思い出します。引き上げる記者のだれかが、「そんなのおまえら勝手にやれ!」と。
でも確かに外務省は、僕はよく言うのですが、“マスコミ依存官庁”で、自分たちの活動の外交的成果が新聞などで報じられなければ、国民に浸透していきませんよね。外交機密にはものすごく口は堅いですが、マスコミを大切にする官庁と思います。その意味で、まだ財政的な裏付けのない経済政策をアドバルーン的に流す当時の通産省と似ていますよね。一方、大蔵省は自分のところで国の財布をにぎっているんですから、マスコミにことさら気遣いをする必要がないですよね。
Q.佐々木さんはそのとき政治部所属だから、やっぱりいっしょに出ていってしまったのですか?外務省の動き自体を報道するというのは、あまり活発ではないのですか?やはり選挙が大事という事なんですね?
もちろんそうです。官庁も固唾をのんで選挙結果を待っていますからね。大きな政策判断はこの時期はしませんよ。霞が関界隈は、国会は開かれませんし議員会館を回って質問を集めなくてもいいしい、開店休業状態になる感じかな。
Q選挙といえば各社の世論調査が話題になりますが、特に選挙のときの情勢調査はどういう体制で行われるのですか?
何しろ総選挙は日本の民主主義を支える“まつりごと”の最高のセレモニーですからね。政治部、編集局、いや会社を上げて取り組む大仕事になります。社内には政治部、社会部、地方部も入って“選挙班”が設置されます。私も入りました。
麻布の金丸信さんの家の近くにあった文部省傘下の統計数理研究所(現在は立川市)の世論調査の専門家のアドバイスも受け、分析、それに基づく当落判定を大学の政治学、統計学の教授らと連携して判断をします。かなり厳密に分析します。新聞社の世論調査はいい加減だという指摘がネットなどで流されますが、内部で見た経験からいうと、学問的にも現時点での最高の確度の高い調査と思っています。
もし当選議員の当落を打ち間違えたり、選挙後の政局の動向を読み間違えたりすれば、政治部長の首は飛びますね。投票日の2,3日前の最終的な予想記事は会社の大会議室で各県の支局を電話で繋いで、二度目の世論調査を基にA,B,C,Dと当落ランクをつけて判定を徹夜でします。支局でも事前に候補者の当選時の事務所での“万歳写真”を取っておくのですが、当落を読み間違えて落選者の万歳写真を使ったケースも現実にありますからね。
ですから総選挙ともなれば、役所にかまっていられないという感じになりますね。政治部っていうのは政治中心に動いているから、役所を深く掘り下げるっていうのはあまり評価されない感じがしましたね。
ただ外務省は別格で、やはり安全保障上、日本の基本の日米安保条約の在り方は日本政治の根底にありました。それが1971年の毎日新聞の政治部記者が逮捕される外務省機密漏洩事件、1981に新聞協会賞を受賞するライシャワー元駐日大使の発言スクープなどに見られるように、特ダネの宝庫だったんですね。ライシャワー発言とは、日米合意の非核三原則がありながら「核搭載の米艦船が日本に寄港していた」というものです。
政治部が常駐していたのは外務省、自治省、労働省、厚生省、防衛庁、内閣府・・・それくらいだったかな。中曽根派担当で仲が良かった松田喬和君(のち特別編集委員)なんかは厚生省担当が長くて食い込んでいました。政治部員の家族が病気になったときに頼りにされていて、厚生省の医政担当の幹部から病院の紹介を受けて、そこに行く感じでした。その後、中曽根派担当で食い込んで、中曽根さんが首相の間、定年後も大編集委員として活躍していますが、未だに厚生省、今の厚労省へのにらみは効いているんじゃないかな。
◇伊東外相を辞任に追い込んだものは?
外務省担当のときにたいへんな騒ぎがありました。大平首相の後を継いだ岩手出身の鈴木善幸さんというのは農政のプロで、外交なんかまったくの素人でした。素人は言い過ぎかもしれないけど、ワーディングの使い方が下手なんですね。
1981年5月に行われたレーガン大統領との日米首脳会談における共同声明に書かれた「日米安保条約は同盟関係」の解釈を巡って、鈴木首相が軍事同盟ではないという発言をして、安保条約は軍事同盟の性格もあるとした外務大臣の伊東正義さんの発言と齟齬をきたしてしまいました。結局、伊東さんが責任を取る形で辞めました。
そのとき伊東さんと一緒に辞表を提出した外務事務次官が高島益郎(ますお)さんと言って、陸軍主計少尉として北朝鮮で捕虜になりシベリア抑留生活を経験したことのある人ですが、この人は本当に剛直な人だったなあー。あとで駐ロシア大使、最高裁の判事になる人です。
ロシア大使館の前の路地を入ったところに外務次官公邸というのがあってよく夜回りに行きました。必ず奥さんがそばについていました。ぼくが外務省担当になって挨拶がてら夜回りに行き「経済部出身で外交には素人です」と自己紹介すると、「素人の目で日本外交を見て書いて下さい」と真面目な顔をしていうので驚きました。そんなこと言われると迂闊なことをかけないですよね(笑)。でも口は堅くて話の接ぎ穂を続けるのに苦労しました。外交官というのはこういうもんなんだと思いました。
高島さんは鈴木首相に説得されて辞任はしなかったのですが、伊東さんがやめたときに、マスコミに本当に怒ってましたね。次官公邸での各社の記者が集まる“オフレコ懇談”で、一部の首相同行記者が日米共同声明を「軍事同盟強化」とゆがめて書いたというのです。確かに初めてこの共同声明では「同盟関係」という言葉を使っていました。高島次官は「軍事的な関係、安全保障を含まない同盟はナンセンス」といってましたから、会談後発表される日米共同声明は事前に外務省がブリーフィングしたのに、意図を曲げてマスコミは鈴木発言を書いたというわけです。カンカンになって怒ってましたよ。
◇難民センターで切実に訴えるおばあさん
さて、伊東正義外相はその前年、1980年の8月か9月にアジア諸国を訪問しました。タイ、ビルマ(現ミャンマー)、インド、パキスタン、中国で、最初にバンコク行って、ビルマのラングーンを訪問します。ラングーンを訪問したとき、現在軍のクーデターで拘留中の民主化の政治指導者アウンサンスーチーさんのお父さんで、建国の父といわれるアウンサンの廟、のちに北朝鮮が全 斗煥大統領がここをお参りした時に暗殺をしようとして爆破したところです。そこもたずねました。
注:写真は当時の地球儀
そのときの首相だったか外務大臣だったかに会いに行ったときに、最初の写真を撮る5分くらいのときに、同行記者団もいっしょにいるわけです。そのときに、ビルマ側が伊東さんに「天皇陛下はお元気ですか?」と尋ねて、伊東さんは「たいへんお元気でがんばっておられます」と答えました。なるほど、天皇陛下というのはこういうときの格好の話題になるんだなと思いました。
当時、カンボジアのポルポト政権の問題があったときで、タイとカンボジア国境のカオイダンにカンボジャ難民のセンターがありました。ポルポト政権の虐殺を逃れて一時難民は、一時16万人もいたといわれていました。日本もASEANの支援のため、難民センターにもお金を出していたのですが、伊東外相はそこまで行きました。
すると赤茶けた土の上に、見渡す限りのニッパヤシみたいな草ぶきの小屋に、何万人ものカンボジア人の難民がひしめいていました。すると、ひとりのおばあさんがぼくの袖をひっぱるんです。それで何か必死になって訴えるのです。でもこっちは何もわかりませんでした。といって、外交官はみんな大臣のところについていて、おばあさんの声を通訳できる人はいませんでした。
あのときの光景を思い出すたびに、あの人はいったい何をいいたかったんだろうんだろうかと思います。助けてほしいとかいう意味だったのかもしれませんが・・・。胸の痛む思い出ですね。
あと思い出すのは、木内昭胤(あきたね)さんというアジア局長(のち駐マレーシア、タイ、フランス大使)が、この時同行していました。太っ腹な人で、面白い人でした。ぼくが難民センターの原稿を送った紙面を、旅の途中の大使館で見て「佐々木君はフランス語ができるの?」といわれたことを憶えています。なぜかといえば、ぼくが五木寛之の小説を当時よく読んでいて、満州からの引揚者だった彼が“デラシネ(根無し草)の民”という言葉をよく使っていたんです。原稿の中で、その言葉を思い出し、あの難民を“デラシネの民”と表現したんですね。そうしたらフランス語ペラペラの木内さんがそこに反応してくれたわけです。それからわりと木内さんとは親しくなり、麻布の確か高峰秀子と松山善三夫妻の家の前の屋敷によく夜回りに行きました。
◇「どん兵衛」で空腹をしのぎながら原稿打電
この時の同行で中国に行ったとき、随行記者団のプレスルームが北京のホテルの上の方のホールにできて、そこから日本の記者は原稿を送りました。そこで必ず外務省の報道官が「どんべい」を差し入れるんです。
Q.どんべいって何ですか?
「どん兵衛」って、カップ麺のうどん版です。中国の新聞局が日本からの同行記者団を接待します。だけど、我々は夕刊・朝刊があって原稿を送らなければいけないから、それに出られないんですよ。もっとも手際のいい記者は、早めに仕上げて接待に行くんですが、間の悪いぼくの様な記者が残るわけです。それで外務省の人がどん兵衛を差し入れしてくれるというわけです。だから、北京飯店のメシ食わないでお湯を注いだ「どん兵衛」ですよ(笑)。あの時は伊東外相のアジア歴訪のまとめ記事という長い記事を書いたこともあったせいか、ぼくだけ取り残されて原稿を書き、本社に送っていたように思います。
この時の強烈な思い出は、夜一仕事終えて各社の記者と北京の天安門道路を散策したんですよ。道路わきにある公衆トイレっていうのがすごかった。とにかく隣の便座との仕切りがない上、猛烈に汚いんですよ。それで今でも覚えてるけど、産経の記者がどうしてもできないっていうんで(笑)、ガマンして青い顔をしてホテルまで帰ったようです。小一時間くらい歩いて帰ったんじゃないかな。
Q.佐々木さんはどうだったのですか?
ぼくは水戸支局時代、シベリアに行ったときに、トイレの仕切りがなかったというのはすでに経験してました。共に今はすっかり変わっちゃったでしょうね。習近平主席が“トイレ改革”を政策として打ち出して、きれいになったと言われてますが、よほど外国の人たちから言われたんでしょうね(笑)。
当時、中国は鄧小平の時代でしたが圧倒的に日本が経済的にも優位な立場にありました。国交回復からまだ10年もたたない時で、日本政府は中国への経済援助、合弁事業などを積極的に押し進めていた時代です。1980年7月の大平首相死去葬儀の時には華国鋒総理が、5月に来日していたのに参列するほどでした。伊東外相も現地で華国鋒総理と会談したと思います。中国側も同行記者団に気を使っている感じはありましたね。
まだ鄧小平の「改革・開放路線」がうまくいくのか、行かないのか、未知数でしたからね。今の中国の台頭を予想した人はあまりいなかったんじゃないですかね。振り返ってみると、その後の1989年のソ連崩壊と合わせて、ほんと世界は4,50年で様相ががらりと変わりますね。
◇拉致された金大中が大統領に!
外務省担当だったときの印象に残る取材対象は、アジア局の朝鮮半島を所管する北東アジア課です。そのときの課長は股野景親さんといったなあ、後にベトナム大使やスエ―デン大使をやられています。まあ口の堅い人で往生しました。その時のアジア局長が、伊東外相のアジア訪問に随行していた木内昭胤さん。毎日夜回りして助けられたなあ。
この時の一番の取材テーマは、後の大統領となる、民主化運動のリーダーだった金大中氏の死刑判決をどうするかということでした。当時韓国は、1961年の軍事クーデターで実権を握った、日本の陸軍士官学校卒の朴正煕大統領が強権政治を敷いていました。日本の経済界、自民党の岸信介、大野伴睦、椎名悦三郎などという“親韓派”といわれるグループが後押しして“漢江の奇跡”という経済成長を続けていました。日本の経済界にとっても、大手企業が続々進出する重要な国でした。
そして1979年、朴正煕大統領が中央情報部長に暗殺され、全斗煥将軍がクーデターで大統領になり、民主化運動のリーダーたちを次々に逮捕していきます。金大中氏は1973年に日本滞在中、九段のグランドパレス・ホテルから拉致されて、KCIA(韓国中央情報部)に韓国に連れていかれ、自宅軟禁となります。日本政府として日本国内で起きた拉致事件として、金大中氏の日本での事情聴取を求めますが韓国側は拒否してきました。
そして韓国での最大の民主化運動といわれる、軍部と対決して百人を超える死者を出した「光州事件」の首謀者として金大中氏は逮捕されて、死刑判決を受けます。日本政府としては拉致事件の原状回復を主張しているわけで、金大中氏の死刑判決がもし執行されるなら、メンツをつぶされることにもなります。結局、国際的にも民主化弾圧として批判を受けて、無期懲役に減刑、米国への出国という事でけりが付きます。
ホント毎日のように北東アジア課に行ってました。アメリカの出方、中国の出方、国際的な動きの中でウォッチしなくてはならないので、勉強にはなりましたね。外交というのはおもしろいなあと思いました。
その後、全斗煥政権が倒れて民主化の流れの下で金大中は18年後、大統領になるわけです。
Qそのころの日韓関係は今と大分違うんでしょうね?
今自民党は嫌韓派が幅を利かせ、SNSの世界でも、韓国へのヘイトスピーチが飛び交っているじゃないですか、当時の自民党の長老の正統派はみんな親韓派でした。戦前の日本統治時代の贖罪意識に加え、戦後の日本経済を考えれば朝鮮戦争当時の朝鮮特需の恩恵、高度成長時代の一端を支えた韓国の存在の大きさが分かっていたと思いますよ。一衣帯水の国と歴史を踏まえて仲良くできないのは、大人の国としての外交ではないと思いますね。一人当たりGDPはすでに韓国に抜かれ始めている状況ですからね。
今でもぼく個人としては韓国問題には関心を持ち、この年になっても話題となっている韓国映画を見るようにしています。
◇日本の外相を30分待たせた“アジアのあんちゃん”
安保条約は軍事同盟ではないという発言をした鈴木善幸首相と対立する形となった伊東正義さんが外務大臣を辞任しました。そのあと、2年前福田内閣の外相として日中平和友好平和条約を締結した園田直さんが外務大臣になります。ぼくは同行取材でいっしょにASEANを回りました。
園田さんは、戦後すぐの選挙で当選、妻子ある身で、当時、初の女性議員の松谷天光光(てんこうこう)と“白亜の恋”と騒がれて結婚しというエピソードを持った人で、福田内閣の官房長官もやっていました。スーツの裏地が真っ赤で度肝を抜かれまことを記憶しています。アッ思い出した。その時の毎日新聞の園田官房長官番をやっていたのが、あとで転職してイトーヨーカ堂の常務になる稲岡稔さんでした。
この時の同行取材で忘れられないのは“そのちょくさん”(園田さんのことをそう呼んでました)がマニラの大統領公邸で、マルコス大統領と会うことになっていたのです。ところがマルコスが会談に遅れて30分くらい待たされました。
これはかなり異例なことです。日本から巨額なODA(政府開発援助)を受けているわけで、その担当の外務大臣が来ているのに、会談の時間を守るのは外交儀礼として当然ですよね。われわれ同行記者団も二人の会談の写真を撮ろうと、待っているわけです。“そのちょくさん”はものすごくイライラして、「あいつはアジアのあんちゃんみたいなもんだからなあ」と言ったことを覚えています。
Q.マルコスが遅れてきたときの雰囲気を覚えてますか?
それはやっぱり表面はニコニコして「どうもどうも」」とかやってましたけどね。でもはらわたは煮えくり返っていたでしょうね。経済援助出をしてる立場ですし。マルコスにしてみれば「日本なんか第二次大戦中、フィリピンを占領して「バターン死の行進」などをやったとんでもない国だ」なんていう気持ちがあったのかもしれません。その辺はわからないですが、外交のトップ同士の会談でも、時間に遅れたりしてひとつの雰囲気をつくるんだということを知りました。
Q.すると遅れたのは確信犯ということでしょうか?
もちろんそうでしょうね。「待たせてとけ」とか言って。あの時、権力者の傲慢さを間近に見た思いでしたね。でもその6年後、国を追われて、20年間続いた独裁者の地位を奪われて、ハワイで客死します。
Q.記者のみなさんは、冒頭の両者がそろったところの写真をとって退席するのですか?
そうです。伊東外相のビルマ訪問の際、ビルマ側が「遠いところをありがとうございました。ところで天皇陛下はお元気ですか?」と言ったという話をさっきしました。そういうあたりさわりのないやりとりをして写真をとって、いったん終わるわけです。「ハイ、カメラ終わり」とか、随行の日本の外務省の報道課の人が声をかけてみんな出ます。ドアを締め切って会談が始まって、それが終わったあと会談内容のブリーフィング(説明)があります。同行している木内アジア局長なりなんなりがやります。
Q.写真はカメラマンが撮るのですか?
いやいや、随行は各社一人ですから自分で撮って、帰ってからまとめ原稿の時に使う資料写真になります。いまだったら一発でメールで送れるでしょうが(笑)。当日の会見写真を載せるときは共同通信社か時事通信社のものを使っていたと思います。
◇小和田雅子さんが活躍していた北米二課
外務省には各社とも、政治部と経済部の両方が記者を派遣していました。経済部は主に経済局担当でしたね。当時はもう高度成長は終わっていたとはいえ世界経済の中では“ジャパンアズNO1”の時代、日本の経済はまだ上り坂、特にメイドインジャパンの自動車輸出と半導体輸出は世界を席巻するすごい勢いで伸びていました。日産がそのころ英国に工場を作るというので話題になりました。
そういう中でアメリカ側から対米自動車輸出の自主規制を求められていました。日本側は通産省(現経済産業省)が自動車業界側に立って、外務省の経済局と北米局の経済担当の北米二課などとタッグを組んで、米通商代表部と交渉にあたっていたと思います。我々政治部はほとんどノータッチでしたね。事務次官の下にナンバー2として二人の審議官がいて一人は経済問題担当審議官で我々は「けいしん」と呼んでいました。
それこそ現在の皇后陛下の小和田雅子さんなんか、ずっと後ですが北米局北米二課におられたわけで、活躍されていたところですね。思い出したけど、外務事務次官をやられた雅子さんの父上の小和田恆(ひさし)さんは、福田赳夫内閣時代の総理秘書官だったんですね。こちらはチンピラ番記者で彼の記憶にも残っていないでしょうね(笑)。でも口の堅い、こわい人―という印象だったですね。
われわれにとって、当時いちばんのポイントの取材対象は、金大中問題を抱えるアジア局の朝鮮半島問題担当の北東アジア課、国会論議などで紛糾する日米安保問題で北米局の日米安全保障条約課でした。この辺は良く通いましたね。
Q.佐々木さんのそのときの立場は政治部からということで、経済部からは別の人が来ていたんですね?
もちろんそうです。うーん、誰だったかなあ。経済部はあまり外務省の取材には力は入れていなかったんではないかなー、やはり新聞を使ってアメリカをけん制する手練手管を持っていた通産省の方が取材しやすかったと思いますよ。
Q.外務省担当を1年ほど務めて政治部から経済部に戻られるわけですが、振り返って、外務省担当時代というのは佐々木さんにとってどんな意味がありましたか?
やはり国家にとっての外交の重要性が、自分なりに会得できたことかなあ。日本の安全保障問題、中国問題、朝鮮半島問題などなど、今も日本にとって避けて通れない問題について、それなりに意識できるようになったことだと思いますね。
特に外交における歴史の重要性、日本と他国との関係は歴史的に見て行かないといけないと思うなあ。カトリック神父の射殺事件を追いかけて上下二巻のノンフィクションの本を2年前に出したのですが、日本の戦前・戦後の外交のあり方がいかに国民全体に影響を及ぼすかという視点を持てたことは、この外務省の取材体験が根底にあるように思いますね。
(以上)