夜中にはろくなことを考えないよね
私は子どもの頃から「誰の邪魔にもならないように生きよう」と思ってきたところがある。
劇の配役や転校など意図せず目立ってしまうことも多々あって、いつの間にやら他人の目を過剰に気にして、どうにかして目に留まりすぎないようにすり抜けようとしてきた。
その考え方はしばしば、人間関係を深めようとする時には特に変な形で現れてきて、他者との距離の取り方を混乱させてくる。初対面で8割気持ちを解放しているように見えたのに、数年付き合うと「まだ全然心を開いていないのでは」と思えるような変な距離感になってしまったりすることもある。
やる気のある人がいる時にはその人のやる気を邪魔しないように静かにしている、誰もやりたがらない時にはまぁじゃあ私が…とひっそりやる。そういう感じで、フェミニズムに出会うまでは対面で自己主張をするのも本当に苦手だった。
今は、自分のやりたいことや好きな物事を大事にするために“言葉を持つ”ことの必要性を知っているから割とはっきり発言することも増えたし、目立つことから逃げないためにももっと学ぶ必要があるのもわかっているので目立つことが怖くなくなってきている。
誰の邪魔にもならないように生きたかった私は、誰かの邪魔をしようとする奴を許さない気持ちを自分の中に育ててもいた。
だから差別の歴史に興味をもったり、憲法とか人権宣言とか子どもの権利条約とかをみんなに読んでほしいと思ったり、選択的夫婦別姓や同性婚の話をしてきたんだと思う。
誰かの邪魔をしないように生きるのはすごく難しくて、自分が良かれと思ってしたことが余計なお世話だったり、全く無意識で邪魔になっていたり、感謝の言葉を添えながらパンチを食らわしてくる高等技術を持っているような人は何を考えているのかわからないので「え!?ここがダメだったか」と思うようなところでその人の意図を遮るような動きをしてしまうことも多い。
だから自分の人生の中で「邪魔をしない方法を探る実践」は常に行われている。
私が恋愛においてポンコツなのは、恋をすると上記のような実践が一切頭から抜け落ちてしまい、相手との距離感を容易に間違える点だと思っている。
あまりにもコントロールが効かないので、もう諦めて一人で生きた方が世のためだ、愛する人の邪魔をして苦しむくらいなら誰とも付き合わない方が自分にも相手にもいい、とかなり強くずっと思っていた。
ただ、世の中は不思議なもので、自分で自分の制御が効かず邪魔ばかりしてしまう(と自分ではかなりいつも反省している)私のその行動を、面白がって見守りながら付き合ってくれる人がいたりもする。有り難い、という言葉がぴったりだ。
誰しもが、他人の邪魔はするし迷惑もかけることがある。
それをずっといけないことだと思って生きてきた私は、この国の教育の賜物として国からとんでもなく丁重に扱われなきゃおかしいってくらいに、たぶん、従順だ。
ちょっと思考がよろければ、簡単に奴隷になれる。
思考回路がパンクロッカーなので踏み外さないで来れた、というだけなんだってことは、忘れないようにしよう。
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