【寄稿】島コラム vol.04 島は争いと交流の先端地だった
スマートアイランド推進事務局です。
スマートアイランドに関心を持つ方に、島のことを知り、関わりたいと思っていただけるような情報を「島コラム」としてお届けしています。
vol.4は、一般社団法人離島総合研究所代表理事の上田嘉通氏による寄稿「島は争いと交流の先端地だった」です。
■国防最前線の国境離島
離島(特に国境離島)は、その立地から歴史的に外国との争いが絶えませんでした。
有名なのは長崎県対馬の防人(さきもり)です。663年の白村江(はくすきのえ)の戦い(日本・百済の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争)に大敗した日本は、唐・新羅の日本侵攻に備えるため、対馬に防人※1と烽火(ほうか)※2を置き、対馬には朝鮮式山城・金田城(かなたのき)を築きました。防人には中部地方や関東地方から兵士が派遣され、給自足の生活をしながら防備にあたったと言われます。その防人が詠んだ歌が対馬の観光物産協会に展示されています。
【防人の歌】
唐衣(からころも) 裾に取りつき 泣く子らを
置きてそ来(き)ぬや 母(おも)なしにして
[現代語訳]
唐衣の 裾に取りすがり 泣く子供を
残して出征しなければいけない 母親もいないのに
※1 防人:北部九州の要地の防衛にあたった兵士
※2 烽火:外敵の侵入などを知らせるための煙やのろしをあげる設備
また、北海道利尻島でも国境警備を巡る事件が起きています。利尻島では1807年、幕府の統治下に置かれていた利尻島をロシア艦隊が襲撃するという事件が起きました。幕府は会津藩に北方警備を命じ、会津藩は約250人の藩士を派遣しましたが、ロシアとの直接的な武力衝突はありませんでした。
しかし、当時の利尻島の厳しい自然環境と食料の不足などから、寒さに慣れていた会津藩士であっても、何人かがこの地で命を落とすことになりました。そのお墓が島に残っています。
■争いの一方で行われた交流
日本は、630年から838年にかけて、唐の制度や文化などを学ぶために派遣していた遣唐使は、島を拠点に出発していました。当初は、壱岐・対馬を通り、朝鮮半島を経て中国大陸に渡っていましたが、663年の白村江(はくすきのえ)の戦い後、新羅との外交関係が悪化すると、五島から東シナ海を横断する航路をとるようになりました。
当時の船の構造、航海技術では、無事に帰国することは難しく、遣唐使たちは日本で最後の寄港地であった五島で航海安全を祈り、決死の覚悟で旅立ったと言われています。
また、豊臣秀吉の朝鮮出兵以後、途絶えていた朝鮮通信使ですが、秀吉の死後、初代の対馬藩主は、朝鮮へ使者を何度も送り、1607年に江戸時代最初の朝鮮通信使の来日に成功しました。それ以来、約200年の間に12回、朝鮮通信使の来日は続き、対馬藩が日本と朝鮮との外交に貢献していました。
■島が持つ、大切な何か
島は、自然と共生する多様な暮らしを許容し、さまざまな争いに翻弄されながらも、交流の先端地という特徴を持ち続けてきました。まさに、島国日本の特徴を凝縮した存在と言えるのかもしれません。
歴史的にたくさんの役割を担ってきた島は、戦後、高度経済成長期を経る中で、人口減少、高齢化が深刻な状態で、経済の衰退、医療・教育環境の悪化、産業の担い手不足などの問題が生じ、無人化の危機に瀕している島もあります。
しかし、そこには、日本人の多くが忘れてしまった自然と共生した暮らしや、経済至上主義ではない持続可能な暮らしの見本があるような気がしてなりません。
参考文献:
対馬観光物産協会
利尻島観光ポータルサイト
国境の島ものがたり
一般社団法人離島総合研究所
代表理事 上田 嘉通