入試の現場から見える、旧AO、旧推薦入試の風景(4)
私は、旧AO入試(総合型選抜)、旧推薦入試(学校推薦型選抜)への疑問を持っています。それは、私の体験によるところが大きいです。
そのような考えに至った私の体験を書いています。今回はその4回目です。
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本記事は、以下の前提で書いております。予めご理解いただけるとありがたいです。
・非一般入試を選択する受験生を批判している訳ではないこと。
・総合型選抜、学校推薦型選抜入試をサポートされている先生方を批判している訳ではないこと。
・この入試選抜方法について、継続して検証されている大学の先生方を非難している訳ではないこと。
・この入試制度が過渡期であること理解していること。
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前回は、私が担当させていただいた、AO入試で大学を目指す受験生の結末について、お話しました。
AO入試で受験生を送り出したあと、一般入試後期の対応で小論文を対策をすることはあっても、AO入試に挑戦する受験生を担当することはなく、日々が過ぎていました。
ある時、この生徒さんは、その後どうなったのか気になりました。彼が進学した大学の野球部には、ホームページがあり、部員を紹介していました。
すると、彼の名前はそのホームページにはありませんでした。
彼は大学では野球部に入らなかったようです。もしかしたら、同好会、愛好会的な活動で野球に関わったのかもしれません。
また、大学では別の事に興味が沸いたのかもしれません。それはそれで、いいことなのではと思います。
ただ、そこで引っかかるのは、
AO入試で書いた志望理由書との整合性です。
「僕は大学に入ったら、○○をしたい、××に挑戦してみたい」と意欲を語って、入試をパスしたにも関わらず、「大学に入って気が変わりました」というのは、どうなのだろうかと思いました。
そう言えば・・・と思うことがありました。彼が指導日の初日に語っていた大学生活のイメージです。彼の口から出た大学に行きたい理由が、ありきたりで、志望理由書に書けないレベルだったことです。
元に戻っただけ?・・・かなとふと思いました。
彼の視点に立てば、自分はAO入試で大学を目指している。どうやら、意欲のあることを見せなければいけないらしい。そのためには、どうしたらいいのだろう?・・・そんな考えのプロセスを経て受験に臨み、合格を勝ち取った。
でも、俺ってそんな大学生活を望んでいた訳じゃないし、志望理由書で書いた通りに大学生を送らなくても別にいいじゃないか?
・・・と考えたとしても不思議ではありません。
人間のやることですので、そいうことは起こりうるでしょう。それが悪いことだとは思えません。
また、彼の名誉のために言うと、少なくともAO入試を準備をしているときの彼の言動は、信じるに値するものだったと思います。今より私は若かったですが、大人の目を欺いて猫をかぶっている様子はありませんでした。あのときの彼の大学生活への意欲は、志望理由書で書いたものだったと思います。
しかし、そのような変心が、許される現状は、一般入試で合格を得た大学生とバランスが取れているといえるのか?という点では、否と言わざるを得ません。
私がこの経験を経て、感じたことは、学ぶ意欲というのは、
・環境や第三者の影響で、人工的作り上げられうる事柄であること。
・その人物のもつ本質的かつ普遍的なものではなく、脆弱性をはらむ流動的なものであること。
・一般入試で問う要因に比して、定量化できない曖昧なものであること。
です。
入試改革において、学ぶ意欲が評価すべき指標であることを強調し、今後さらに重視されるべきだと高らかに理想を謳う大学関係者の話を聞くたびに、
学ぶ意欲という指標が脆弱性、不安定性をはらみ、継続性を担保しえない事柄であることは、大学の関係者はとうに気づいているはずなのに、何を言っているのだろう?
と思ってしまうのです。
こういう言い方は大嫌いなのですが、百歩、いや一万歩譲って、そうしないといけない大人の事情があるのだ・・・という理由で譲歩したとしても、
学ぶ意欲を強調する際に、セットで語られることがある
一般入試で入った学生の中には、学ぶ意欲が失われている者がいる
を根拠にする点は、到底承服できない部分があります。
これも、そのように感じる事例があったからです。
次回以降それについて述べます。
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